移民政策において、米国とフランスの違いは大きい。外面上は似ているのだが、その内容が随分違うのだ。米国の場合は、移民同士の文化的隔離が大きい。フランスは同化主義だ。これらは外婚率という数字で検証できるのだ。


 すなわちフランスにおいては結婚において、外国人や移民という障壁はあまりないのである。混血への無頓着があるという。表面上は敵意があるのだが、婚姻に関しては無頓着である。


 一方アメリカでは移民がグループ化して、他を排除する傾向があるといえよう。もちろん表面上は仲良くするのだが、同化しようということはあまりない。

 
 カリフォルニアではコーカシアンとアフリカ系アメリカ人の婚姻率より、コーカシアンと日系の婚姻率の方が高いという。


 アメリカでは休日にコニーアイランドに行けば、さまざまな文化を見ることが出来る。ジャマイカのバンド、ブラジル系のボサノバ、そしてドイツ系のホットドッグにアフリカ系アメリカ人のバスケ。さまざまな文化というか民族的な表象が乱立している。


 一方フランスのパリなどではあまり民族的表象は見られない。どこもパリ色でゴダール映画である。


 こうしたアメリカにおける多文化の許容というものが、移民隔離の原因とエマニュエル・トッド氏はいう。


 それでは日本ではどうか。日本で顕著に見られるのは、女性を強調した文化である。同一の民族内では新たな性的隔離というものが生まれる。


 これはフランスが男女の区別を避けるのとは対称的である。女性の自立、女性の社会進出という具合に女性が強調されるのである。


 こうしたものは喫煙者と非喫煙者、高学歴と低学歴、キャリア組とノンキャリアなどという、強調隔離の形態であらわれる。


 そして一方を優位にするのが特徴だ。非喫煙者、キャリア組、高学歴の地位は圧倒的に強調され高くなり、他を隔離するのだ。


 また、こういった複数文化が共存しているというか、あえて共存させていながら、隔離するのが特徴なのである。


 しかし、婚姻を見ればどうか。その点はフランスに似ているのではないか。憎悪はあるが、婚姻には無頓着である可能性が高い。

 それは良いことなのかもしれない。

 つまり日本ではアメリカ的な移民隔離はまだはじまっていないのである。

 移民隔離とはどういうことか。つまり、絶対神奈川県の人とは結婚しないし住まないが、会話はするし笑顔でつきあう。外っ顔では紳士的だが、深くはつきあわないということだ。

 もちろん人種差別はしないし、雇用もある程度平等であるが、多文化を許すことが移民隔離につながっているのである。


 こうした中ではマイノリティは常に不安定の中に置かれるのだろう。


 日本ではあまりみられない。たまに職業内的隔離主義(派閥等)は見受けられるかもしれないが、一歩外に出れば、あまり関係ないのである。むしろ同属を嫌ったりする。

 すなわち本質的には日本はフランスに近いのである。外国人への憎悪は激しいが、こと結婚やセックスとなると、内外はあまり関係なくなる。

 日本で顕著な無理に作られた女性強調文化は、性的隔離を引き起こす方向にあるのではないか。

 
 女性文化を育てようと言う良さそうに見える方策が裏目に出るのだ。女性経営者に融資をするなどというのもそうである。こうしたことが、日本の少子化を生んでいるのではないか。


 たとえ所得が低くても男女はつきあうことはできる。アフリカを見れば判る。貧しくても子供などは何人でも産むだろう。ところが日本ではそうでない。

 ゆえに所得が低くなったから少子化になったわけでもないのだ。


 もはや日本の女性は、アメリカにおける移民文化のひとつと同じである。コニーアイランドの海岸では女性エリアの女性バンドが、まるでジャマイカ人のように集まり、ゆるやかな外面上のコミュニケーションをもちつつ、そのカラーを強調しているのである。

 一方で男性は男性で、同じく移民文化を持ってしまった。もはや二次元がすべてになってしまったのである。


 これを産んだのは確実に、女性強調政策のせいである。


 これらはほとんどが英米から持ち込まれたものであり、移民文化間のコンフリクトを解消するためのサブ的なものを引っ張ってきただけだ。

 ゆえに常にグループ間の距離を重要視する。これは銃社会であることに起因する、正当防衛の距離なのだ。


 こういった政策によって隔離された場合、移民同士の結束が高ければ、あまり気にすることも無いかもしれない。アメリカンアフリカンにひどいことをされても、帰る場所があるからだ。


 しかし、同一民族内でしかも家父長制文化であると事情が違う。他家に攻撃されればあだ討ちとなるのだ。例えばパキスタンでは嫁入りを断った女性を一族が焼き殺すこともあるという。


 こういった家父長制はユーラシア中央部から広まった軍事力を背景とする家族体制である。もともと日本は女性の地位は高かった。卑弥呼などをみればわかる。しかし、ユーラシア中央部から広まった家父長制の影響・軍事的組織形成が、中央集権と男性社会を生み出した。早い意思決定と武力が必要だからである。


 日本においてはそれに加え、第二次大戦後の防衛力の欠如から、中央集権と男性社会は残ったといえよう。常に他国の緊張にさらされる環境なので、粗末な防衛力と軍事力で闘わねばならず、常に情報と警戒、スクランブルが必要だからである。


 そのような中で無理やり対置された女性強調主義が裏目に出て、少子化という結果になったのだろう。


 つまり、これを解決するには、どーんと核配備をすれば良いのである。細かい外交の機微や中央集権的な連携など必要なくなる。

 ボタン一発でドーンと行くよと。


 中国や韓国などもシュンと黙らせれば良いのだろう。


 これによって中央集権の必要性も和らぎ、女性強調文化も廃れるだろう。

 
 例えばバブル期は日本の地位が世界的にも大きかった。中国は霞んで見えない時代である。彼らは日本に留学して必死で経済学を学んでいた。


 そういう時代には性も開放的で女性から「セックスしようよ」ということもあったし、日活ロマンポルノも最盛期だった。


 少女のひどい事件も無かったし、二次元はかなり嫌われていた。セクハラが生まれたのが1987年でバブル崩壊直後だろう。宮崎事件が1989年である。

 つまり、日本の力が弱くなり、再び中央集権化と軍事力増強がはじまったのだ。これと同時に、お宅やセクハラやストーカーという隔離主義がはびこり、女性という移民強調が強化されてきた。

 そういった移民をわけて存立させ、優位性と劣勢を配置することによってアメリカナイズしようとしたのである。正社員と非正規もそうだ。


 しかしこうしたアメリカ的な移民隔離の導入と日本の家父長制のコンフリクトは大きく、生々しい殺人にまで発展してしまうのである。


 アメリカ的な移民隔離ではなく、フランス的な同化こそ日本に導入すべきだったのだ。

 つまり移民間の性と婚姻の自由、性文化の増強こそが正しい道だったのだろう。

 もはや30年近い中でのロストである。

 男移民と女移民間の対立は激しさを増してしまっている。昨今の野次もその表象ではないか。


 そういう意味で性の解放を求める者だけが、新しい時代の開拓者でもあるのだ。