昨年書いた「母の日」の記事が出てきました。

 

長年、牧師夫人として働いてきた私の母を思いながら書いた記事でした。

 

 
 
牧師夫人の涙
 
牧師夫人については、各個人のイメージがあり、日本ではマイナーな立場でもあるため、「大変ですね。」とよく言われるのですが、では何が大変で、どのような生活をしているのかは、牧師同様、ほとんど理解されていないと思います。
 
私は現在、夫が牧師なので「牧師夫人」なわけですが、「牧師夫人」にはあまりにも勝手なイメージがついて回るので、あえて「牧師の妻」という別の呼び方を好んで使っています。
 
英語では「Pastor's Wife」(牧師の妻)というので、そちらの方が良いと思いました。
 
私が現在、牧師の妻である前に、私の母が牧師夫人だったので、よくいろいろ観察していました。
 
私が感じていたことは、「牧師夫人になりたいか?」と聞かれれば、多くの女性は「なりたくない」、もしくは尻込みしてしまうような職(と言ってよいのかも分かりませんが)だということ。
 
その反面、「なんか幸せそう。」「祝福されてそう。」「守られていそう。」というイメージもあり、時には妬みの対象にもなったということでした。
 
働きに出ることもせず、「一体何やってるんだろう?」という見方もあったでしょうし、昔は「神にのみ頼る」という方針でアルバイトが禁止の教会も多くありました。
 
「社会に出ていない」とみなされ、「世間知らず」「苦労知らず」と思われることも…。牧師夫人は「お勤めには出ていない」かもしれませんが、社会に出ているのと同じくらいの人に会い、さらにはもっと深刻な問題を抱えている方へ対応しなければならないこともあります。
 
いじわるや心ない言葉もありましたが、母は常に善をもって相手に接するということを貫いた人でした。
 
晩年になって、「あの時はごめんなさい」と謝ってこられた方がいて、常に善をもって接した母は間違っていなかったと、私も平安な気持ちでそのことを聞きました。
 
母は、パーマをかける時期や頻度なども気を遣っていましたし、たぶん着る物や生活面ではできるだけ質素に、目立たないようにしていたと思います。
 
明治生まれで母子家庭だった祖母に厳しく育てられたので、実家でも気を遣い、実の子供である私たちにも気を遣うような母でした。
 
母はめそめそ泣くような人ではありませんでしたが、それでも何度か涙を流すのを見たことがあります。
 
・未信者の父方の祖父と同居していた時
・実の母親が亡くなった時
・私と分かり合えなかった時
 
他に、父のことを心配した時もだったかなあ?と思いますが、数えるほどしかありませんが、私にとっては大きな衝撃だったことを覚えています。
 
「自分は牧師夫人にはならない」(というか、なれない)と思っていた私が、結婚して夫が牧師になり、それは今でも奇跡のように思います。
 
「牧師夫人にはなれない」と思っていた私なので、何ができるとかできないとかではなく、「牧師夫人をやっていること自体が感謝」という、何ともハードルの低い牧師夫人です。
 
牧師の妻になって初めて思ったことは、「牧師の子供だから、牧師や牧師夫人のことはわかっている」と思っていましたが、やはり自分が同じ立場になるまでは、たとえ牧師家庭に育っていてもわかっていなかったんだ、ということです。
 
あるとき、初めてお会いした牧師夫人に、「夫が牧師をしています」と自己紹介した時、その方は目にいっぱい涙をためて、「そうでしたか・・・!涙が出ます・・・。」と言われ、温かい手でぎゅっと私の手を強く握りました。
 
私は教会に仕えることは幸いだと思っているので、めそめそ泣くつもりはありませんでしたが、その時なぜだか涙が出て止まりませんでした。
 
そして、自分が牧師家庭に育ち、その後「牧師夫人」として傷ついている部分があるのだと思いました。牧師夫人は、教会に仕える幸いを概ね感じていると思いますが、少なからず抑圧されている感情がある場合があります。そしてそれは自分でも気づいていない場合があります。
 
表には出てきませんが、前任者との比較、牧師館のストレス、人間関係のストレス、奉仕が多種多様に求められるストレスなど、牧師夫人が抱えているものは多くあります。
 
そしてそれは「口が裂けても言ってはいけないこと」として、誰にも相談できなかったり、一人孤独に悩んでいるケースも多く、病む牧師夫人も少なくありません。
 
ある教団の「いわゆる『牧師夫人』に関する見解」という文書には、「悔改めつつ、以下のことを確認する。」として10ページにわたる内容が書かれており、私も読む機会がありました。
 
日本の「牧師夫人に関する理解やとらえ方」は、「悔改めに匹敵するものである」という事実は、私が時々、発信すべきトピックの一つであると思っています。
 
牧師夫人については、「自分たちのことを顧みてほしい存在」ではあっても、「牧師夫人もまた牧され、励ましやねぎらいが必要な存在である」とはあまり意識されず、いつも元気でにこにこして、様々なことをこなして当たり前という、いわば家庭では「お母さん」のような存在なのかもと思っています。
 
私自身は今の在り方を見出し、この歩みに悔いもないですが、私自身のためではなく、他の多くの牧師夫人の心の声や、表に出てこない牧師夫人の「存在」を理解していただく何かのきっかけとなれば嬉しいと思います。
 
各教会の在り方や考え方は異なり、ノンストレスの牧師夫人もいれば、大きな負担を抱えている牧師夫人もいらっしゃり、人知れず泣いている牧師夫人もどこかに必ずいらっしゃいます。
 
笑顔があるかどうかと、まともな会話ができるかどうかで元気なのかがわかります。
 
中には深刻に病んでいることに、夫である牧師も教会員も「気づいていない」ということもありうるので、注意が必要です。
 
家庭内でお母さんが明るく笑顔だと子供が安心して育つように、教会内で牧師夫人が笑顔でいられたら、そこは幸いな教会だと思います。

 

 

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