ここ数年
日本でも(学校制度ね)
飛び級制度を導入したらどうか
というような議論が起こっているようだけれど

個人的には
賛成でも反対でもない。
と、言う事を先に記させていただきます。
では何故わざわざこの記事を書くのか。
それについて、(何においてもだけど)
様々なラインからの症例や実話を
耳にしたり、検討しながら
自分なりに考えを持つ事って
イッカイノシュフ
一人一人にも
必要な時代だから(だと思っている)。
こんな話を伺った事がある。
(印象的だったので書いてみますね。)

知人Kさん。
彼女は音楽界での名門
ジュ○アード音楽院
のご出身。
ピアニスト(彼女は教会での宗教音楽を専攻)
を目指して渡米。
そこには
11歳や9歳の同級生もいて
いわば世界中から
ピアノの神童が集まってきていた。
当時のKさんは(日本の高校を卒業してからの入学)
ドイツ人だと聞くだけで
あぁ、ベートーベン♪
と、思い
ショパンコンクールで受賞したダレソレ
と知っては
あぁ、天才。
と、圧倒された。(と、話してくれた)
そんな中
先ほども触れた
10歳にも満たなかった(当時)
同級生の少年少女達。
現在も皆、ピアニストとして活躍されているそうなのだけれど
彼女の洞察はこうだった。
いたってノーマルなピアニストになってしまった。
入学当時
確かに、目を見張るような
華やかなテクニック
凄すぎて
息を飲んだ。
けれど同時に
何かが足りない
って、20歳やそこいらだった彼女なりに
感じていた。(彼女は今50代後半のオトナです)
やがて、
そりゃもちろん
ジュリアードの門を叩くクラスの人々なので
当然と言えば当然なのだけれど
テクニック的な事は
皆身につけていく。
音楽と言うのは
学問でもあると同時に
芸術でもあって
同じ曲を演奏しても
そこに
奥行きが生まれたり
拡がりを見せたり
激しさも、哀愁も
柔らかさも無骨さも
挙げだしたらキリがない
情緒的な感動
を、聴く人に届けなければならない。
自己満足では
他者の琴線には触れられない。
と、いう側面を持つわけだけれど
Kさんが
後に気づいたのは
この子失恋した事ないんだな。
家族でおバカして大笑いしただろうか。
今日の練習を少し見送って明日倍の時間練習しよう
その時間、違う事に費やしてみてもいいじゃないか、というような
臨機応変に
現実的な生活を
どれほど許されただろうか。
そんな事に気づき始めた彼女は
技術的な(その世界では難しいと言われている曲を弾きこなすとか)
空間の創造(人々がおぉ!と驚くような、ため方とか)
華麗さといったものは
悪いが後からいくらでも皆追いつく。
けれど
人間的な厚み
というのか
感情の機微
酷く傷ついて、またそこから立ち上がる人間の素晴らしさ
のようなものを相応な時期に経験出来なかった事による
The テクニックだけ。
なピアニストに成長してしまった現実。
無論、だからといって
演奏だけがすべてではなくて
違う方法でそれらを生かす人生の選択もあるのだけれど
神童と讃えられた
ピアニスト達が
まぁまぁそこそこのピアニストになった
(なれただけいいじゃん、というご意見もあるかな?)
という実例をオハナシくださった事があって
子供の幸せとはなんだろうか。
その時その時に必要な事の優先順位を間違っていないだろうか。
と、
名門ジュリアードにえんもゆかりも
ないくせに、
あらためて考え直す
普遍的なテーマだと思ったんだよね。


すべては程度の問題であるんだろうけど。ね。