神慈秀明会が世間を騒がしていいます。これまでも脱税やさまざまな訴訟問題を起こし、宗教としての存在意義が問われています。ぼくの友人・知人がまだたくさん在籍していることを考えると、彼らが一日でも早く間違った宗教を信仰していることに気付いてほしいと願わずにおれません。元信者だったからこそ言えることがあります。
◆ぼくは元バチェラー・青年ルビー、父は建設委員、母は世話人
父の膠原病がきっかけで、神慈秀明会がまだ世界救世教の傘下にいた時代に入信。母、ぼく、弟、そして親戚多数が入信しました。神慈秀明会では中学1年13歳で入信できるので、ぼくや弟も中学1年生で入信し、中高生部、大学生部、成人部、男子部と進みました。
ぼくは大学生部の時にエリート、青年ルビー、そしてバチェラーとなりました。父は、男子部のいち信者でしたが、神苑建設の建設委員のメンバーとして神慈秀明会でも名の知られた存在でした。
母は支部の世話人。弟は高校卒業後は就職したので成人部でカレッジに参加していました。
そんな信仰篤き一家でしたが、20 年前、母が「金の切れ目が縁の切れ目。もうこれ以上、お金が続かないし、気力も続かない」と退会したのを機にぼくたちも次々と退会。今では「辞めて良かった。今はなんて幸せなんだろう」としみじみ語り合っています。
◆浄霊とは一体なんだったのか?
手をかざして、相手に光をおくることで魂を浄め、あらゆる不幸が幸福に変わる「浄霊」。そんなことが実際に起きるのでしょうか。例えばイエス様の奇跡のように盲目の人が見えるようになったり、歩けない人が歩けるようになったり。これは事実、神慈秀明会でも起きます。それを「奇跡」と称して「浄霊」によるものだと喧伝しますが、しかしそれは神慈秀明会の専売特許ではないのです。
相手の幸せを願って、手の平から光が放出されることをイメージすると、本当に光が出ます。これは一種の「気」または「バイオエネルギー」または「生命力」なのですが、これが相手の体や心に注入されれば、当然元気になります。これを「神の光」といっても間違いではありません。人は皆、神の子ですから、相手の幸せを願う「愛」の心の波動は、病んでいる身体を癒します。これは誰でもできることで、ぼくも退会した後、家族の病をこのやり方で何度も治してきました。
つまり、神慈秀明会だろうが、なかろうが、何かを信仰しても、していなくても、正しい愛の心で相手のことを願うとき、奇跡的な現象は起きるのです。「おひかり」など首から掛ける必要などまったくありません。
つづく