※今回の話にはいつもより違うベクトルで過激な表現が含まれています。
Episode.9 "Good bye , Good day"
霞上響花は自分の親の顔を忘れた。自分が勘当同然に飛び出した母親とホスト崩れのヒモ以下の男の間に産まれたという事実は知っている。それ以上のことは出来るだけ覚えないようにしていた。彼女にとって、肉親に対する記憶も後で情報を拾い集めて想像で欠落を埋めたものでしかない。
夜の街で出会ってから数か月で響花を授かり、なし崩し的に結婚した二人だったがまともに同居生活をしていたのは三年未満だったらしい。父親は家を空ける日が多くなり、彼がたまに帰ってくる度に言うことを聞かない響花を叩く母親の声量は大きくなった。
四歳になる頃には響花自身もその環境に慣れていた。自分のことは自分で出来るようになっていたし、母親の機嫌を損ねないように彼女の体面を保つ行動も身についていた。だが母親が響花を叩くことが無くなったのは彼女の努力の結果ではない。ただ父親が殺され、怒りを産みだす相手が居なくなっただけの話だった。
父親の死因は一酸化炭素中毒。家を空けることが多かった彼は他の女と不倫しており、なかなか関係を進展させようともせずに居座る彼に対して愛憎を膨らませた不倫相手に捕縛されともに心中させられたらしい。
遺された家族にとっては彼の死因はどうでもよかった。寧ろ不倫が事実として確定したことが響花の母親にとっては重要だったのだろう。事後処理を終えてからは今度は彼女が家を空けることが多くなったのだから。毎夜着飾って街へ繰り出し、金に糸目をつけずに享楽に自ら溺れていた。それでも彼女の心が本当に修復されることはなく、借金を作っても満たされない現状に絶望し、最後には響花を残して首を吊った。
響花は借金共々母親の親戚をたらい回しにされ遠縁の家族に引き取られた。養父母に二つ上の義兄と一つ上の義姉。親戚間のパワーゲームと取引で押しつけられた一族の恥部などに、四人で成り立つ家の居場所などない。見下す視線と理不尽を受け入れ、顔色を窺って奉仕することでようやく存在することを許された。何をされても悪いのは自分で、生まれたところから間違えた自分は家族に対して間違えたことをすればその分だけ罰を与えられるのは当然だった。懲罰房にはプライバシーなどないようなもので、外聞に影響が出ないように工夫を凝らした辱めを受けた。荒い息を浴びながら素肌を触られたのが同級生よりも早いことは間違いない。自分のものでない体液をシャワーで洗い流す度に意味の無さに自嘲していた。元から汚いものをどれだけ洗ってもきれいになることなんてないのに、と。
別に自分の人生を嫌悪していた訳ではない。ただ事実として自分が汚いものだと認識していた。汚く生まれ落ちた自分はきれいに終わることはない。いつどのように死んだところでそれは変わらない。だから希望を胸に現状を打破する気にも、絶望して自殺する気にもならなかった。存在意義などない人形――それが十代に確立された霞上響花の自己評価だった。
十八歳の誕生日から一週間後、家族に言われるまま組み立てられた響花の進路はその家族に捻じ曲げられた。原因は奇しくもこの家族に引き取られた理由である借金。長男は援助交際の中心人物として、長姉は大学に潜んでいた宗教団体に取り込まれて詐欺に関与したことで逮捕。心を病んだ母親はホストに騙されて貢ぎ、父親は家族絡みの風評に耐えられずに心労から運転中に人身事故を起こした。連鎖的に積み重なる罪と借金を見て、響花は自分は人形でも呪いの人形だったらしいと他人事のように思った。
響花にとってこの家族はただ自分の運命を握っているだけの他人に過ぎない。運命に奉仕する奴隷がその未来を切り捨てられるのは当然のことで、響花は高校を辞めて夜の街で仕事をすることになった。かつて自分の母親の借金を肩代わりしたことをしつこく言う元同居人の姿を奇妙だと思ったのがあの家での最後の思い出だった。そんなものは免罪符にはならないのに彼らは何がしたかったのだろう。
青春を捨てて働くことも忌避すべき仕事内容も響花にとってはどうでもよかった。業務内容に似た経験は散々してきたし、奉仕する相手が日ごとに変わることにも慣れていた。結局のところ自分が人形であることは変わらない。操る相手が違うだけで、寧ろ女としての商品価値を維持するためにまだマシな扱いをされていたともいえる。整えられた顔と儚げで妖しい雰囲気は男を惹きつけるには十分で、丁寧な技術と接待が合わさり、積み重なる高評価で早いペースでランクは上がっていった。そんな日々で自分という人形は使い潰されるものだと思っていた。
その夜の客は店の元締めと太い繋がりのある一族の放蕩息子だった。顔立ちは整っている癖に言動や振る舞いは薄っぺらい所為か、顔を見ているだけで響花は珍しく胸の奥に棘が刺さるような錯覚を覚えた。そのレアな兆候が柄にもなく表に出てしまったのが相手の癪に触ったらしい。
間違いなく今までで最低の客だった。自分のバックに居る力を誇示して、店の規約を違反したプレイを強要して思いやりのない暴力を振るった。何より最悪なのはその客が自分の行動に対する反応にやけに敏感だったこと。悦びの表現も痛みに対する悲鳴もすべてが嘘っぽいと唾を吐かれた。それらしい反応をしているだけだと見ぬかれた。
本物のリアクションを返せたのは十何回目の殴打のとき。ぎらついた笑みを半ばぼやけた視界で見上げた一瞬、粉々に砕いたはずの幼い記憶の一シーンが鮮明にフラッシュバックした。
自分を見下ろして野蛮な笑みを浮かべる人擬きの獣。それを響花は知っていた。始まりから自分を間違えさせた両親の中でも先に死んだ方だ。四歳の誕生日、珍しく帰ってきた父親は自分を見るなり、声を荒げて頬や胸を叩いた。「親に対してその目は何だ」とかそんなことを言っていた気がする。癪に障る視線を向けられるだけのことをしてきたのは誰だったのか。自分が環境に期待しなくなったのは多分そのときからだったと響花は思い出した。
遥か昔に置いてきた筈の理不尽に対する怒り。大人になってもその発散方法を知らなかった響花は最も原始的な行動に訴えた。
それはあの日父親がしたことであり母親が散々してきたこと。客の手を振り払うように飛び出した手はその頬を鋭く叩いた。
相手にとって肉体的な痛みなど無いに等しいものだろう。だが、反応の薄さが気に食わない相手がようやく見せた感情的な行動が拒絶の意思によるものだったという事実こそ、男の心の奥のトリガーを引くには十分だったらしい。
飢えた獣が貪るように滅茶苦茶に襲われた。抵抗する意思をみせればそれをねじ伏せるのを喜ぶように性差と筋力の差を見せつけられた。顔を殴るのを平手に留めたのは、獣なりに僅かに残った理性があからさまな傷を店から指摘されるのを避けただけの話。その分の拳は首より下を襲った。汗以外の体液がどれだけ流れても満足するまで捕食を止める様子はなかった。
ここに来てまた自分は間違えてしまったのだと響花は理解した。だから諦めて自分で自分の心をもう一度殺そうとした。それなのに涙も声も止まらず、体力の限界を超えてもこれ以上の陵辱から逃れるようにもがいた。
運命が別れる時は十数秒のやりとり。回転するように身体を捻って男の下から逃れ、追いすがるその顎を蹴り上げる。ベッドから転がり落ちたところで引っかけたのは男の鞄。ジッパーからこぼれ落ちる手帳や財布に紛れて一枚のカードが響花の目の前に転がった。何かを期待した訳ではない。ただ朦朧としつつある意識の中で伸ばした手がそれを掴んだ瞬間、彼女の身体を忌避すべき未来へと逃れさせた。
心身ともに傷だらけで死後の世界と錯覚しつつあった響花の目が初めに捉えたのは瀕死の小さな生命だった。犬耳が生えた饅頭のような汚らしいぬいぐるみのような生物の、その閉じかけた瞳に響花は見入った。
経緯は知らずとも誰が見ても先のない命で、そのことを何よりも彼自身が理解している。それでも生きていたいという意思だけは消えずにある。それは先ほどまで響花を突き動かしていた彼女自身が言語化できない感情に近いものだと思った。そう思いたかった。だから、目の前の命をどうしても助けたかった。それが最初から間違え続けた自分が初めて自分の意思で掴んだ揺るぎない決意だった。誰が間違いだと言おうとどうでもいい。尽きかけている命を救うことほど、自分で自分の価値を認められることなどありはしないのだから。
――ナーダ、あなたは私が絶対に助ける。だから、何があってもずっと一緒にいてね。
幸い助ける術は腕と一体化したあのカードが教えてくれた。名前を与えるとともに繋いだ経路は二十年以上の人生で関わった誰よりも暖かかった。
――きっと、この子は自分を裏切らないだろう
そんな確信が胸に浮かんだ瞬間からナーダとの繋がりは絶対に手放したくないものに変わった。思わず口をついた言葉もそれを変わることのない現実にしたいと思える決意となった。
契約により息を吹き返したナーダを撫でながら、響花は痛みから遠ざかって冷えた思考を稼働させて、自分が初めて本心から愛を向ける存在に何が出来るのかを探った。機械的なチュートリアルとマニュアルで得た知識を元にまず取った行動はナーダを生かすための餌の捕獲。ナーダが出会ったときに傷だらけだったのはモンスターと相対していたからだ。モンスターの中でもまだ非力な部類に属するナーダを危険な目に遭わせるわけにはいかない。ならばその生命を保ち、より力強い姿へと変えるために何を与えればいいのか。――その答えは数分前の響花の記憶にあった。
「がッ……なんだ。どこだここ! お前、何しやがった!」
「元気なのね。これは見込みが甘かったかしら」
「何言ってるんだ? 元に戻せよ! こんなことしてただで済むと思ってんのか!?」
一分後、一度現代へと戻った響花は餌を持ち込んだ。無造作に投げ捨てられたそれは哀れなホモサピエンスの雄。彼は数分前まで支配していたはずの女によってもたらされた非現実な展開についていけず、転移前の獣性のまま響花を探して勢いのままに掴みかかる。だが当の彼女の興味は既に彼になく、真正面から見据える目には男の存在は映っていない。反応の薄さに苛立って引き出した動物的な悲鳴とは違う。特別な興味を持っている対象が初めて明確化したことで、霞上響花という人間の本性が初めて表に出てきた。
「ああ、本当にうるさい人。でもこれくらい活きがいい方がいいのかしら」
「答えろって言ってぅゴブッ!?」
男の声を遮ったのは不意に腹に食い込んだ響花の右手。指からはみ出る程の石が握られたその拳は非力な女でも男を怯ませるには十分だった。掴みかかった腕の力が緩んだところで真正面から蹴り飛ばして彼の背中を大地という皿に叩きつける。
「いっ……何しふがふぐっ?」
振る舞う相手は愛すべきナーダ。待ってましたとばかりに大口を開いて男の顔へとダイブ。そのまま逃れるようにもがく頭を地面に押しつけて待ち望んだ食事をじっくりと堪能する。
「あ、ガ……ハハ」
自我を失うまでに男が唯一できたこと。それは人の皮を被った怪物を解き放ってしまった罪を自覚することだけだった。
「どうかしら? 選り好みはできなかったのだけれど」
「ビミ、ダッタ」
「そう、それは……ええ、とてもよいことだわ」
男だった肉塊が完全に機能を停止する。その顔から離れたナーダの姿は灰色の犬に似た姿へと変わっていた。進化という現象らしいが響花にとってはそれはさして重要なことではなかった。
ナーダは血塗れの顔で満面の笑みを見せてくれたのだ。その笑顔だけで響花はモンスターのために生きることへの躊躇を捨て去ることができた。
毒の吐息と落とし穴。進化によって目覚めた新たな捕獲手段を携えて、響花は自分の周囲から狩猟を始めた。手始めに自分の借金を握って閉じ込めていた店や組織の支部で関わりのあった男を与えると同時に響花自身を縛る枷を外した。次に与えたのは十年以上同じ家に居ただけの親戚達。特に長男はナーダの口に合ったらしく、響花に見せつけるようにじっくりと味わっていた。響花が理解できる言葉を話す際に詰まることが無くなったのもその頃だった。
直接的な繋がりのある人間を一通り餌として与えた後は、ある程度ほとぼりが収まるまで特異点Fに潜み、時折現代に赴いてはしつこい部類の刺客をナーダへの手土産とする生活をした。サングルゥモンという鋭い刃と影に潜む能力を持つ狼に進化したのはその最中で、調理も後始末の速度も飛躍的に向上したことを喜び、日本語で互いの感謝と愛を語らった。顔の傷が化粧で隠れる程度に癒える頃には餌志願者も現れなくなってしまったので、足のつかないホームレスに一夜の夢を与える代わりに命を捧げてもらうことにした。
ナーダと同じモンスターを餌としなかったのは戦闘でのリスクを避けるためだけではない。それ以前の話として、ナーダが人間しか食べられない食性になってしまったからだ。度重なる偏食で趣向という癖に深いところに人間の味が染み付いてしまったのだろう。ナーダ自身が口にしたその分析を否定することは響花には不可能だ。ならば彼女らに残された道は一つしかなく、仕方ないと自分に言い聞かせながら凶行を重ねた。
ここ二か月は夏根市で「御手洗明日香」という偽名を使って自分が磨かされた技術が使える店で働き、アスタモンへと進化したナーダに目星を付けた男やしつこく近寄る男を捧げる暮らしをしていた。場所や手段が多少変わろうとも、そんな日々が続けばそれだけで良いと思っていた。――ケチがついたのは、そろそろ新天地に移ろうかと思った矢先のことだった。
いつものように相良啓太を連れ去ってナーダがその味を堪能しようとしたところでデクスの群れが現れ、そちらに意識が向いた隙を突かれて彼に逃げられてしまった。後を追おうにもまずは数の暴力を捌かなくてはならない。一つ一つの質は大したことなくても骨が折れると思ったところで、群れの中から一人の男が姿を見せた。
空軍パイロットのような合成皮革の衣装に身を包み目元もゴーグルで隠したその男は響花に一つの問いを投げた。
――トラベラーを辞めるつもりはないか。
すべてをナーダに捧げる覚悟が出来ていた響花にとって、それは何があったとしても答えが変わることのないもの。ただそんなことを問いかけるということは抱える答えを口にすればデクスの群れとの戦闘が再開することは目に見えていた。だから、出来る限り自然な動きで撤退の準備をしつつ、誤魔化すことのできない拒絶の意思を静かに伝えた。
――そうか。まあお前はそうだろうな。アレに近い部類の人間だからな。
だがその男は攻撃指示を出すことなく、デクスの群れを連れて踵を返した。
――どうせ末路は知れているんだ。邪魔しないさ。最期まで好きにやればいい。
それが男が去り際に残した最後の言葉だった。