第四章 意識転送計画
翌朝、蒼は御堂に呼ばれた。
「昨夜の波形を見た」と御堂は言った。「キャッチャーとして機能したな」
「たまたまです」
「たまたまではない」と御堂は言った。「訓練なしに、あの精度でライ麦畑に入れる人間は、記録上、ほぼいない。渡辺くん、君は稀な能力を持っている」
「能力があっても、現実の世界では意味がない」と蒼は言った。「あの子——波形の主を、現実で助ける手段がなければ」
「その点について」と御堂は言った。「一つ、話がある」
御堂は机の上のファイルを開いた。
「感情フィルタリング法案に関連して、政府から新たな要請が来た。ライ麦畑観測技術を使って、自殺リスクの高い人物を特定し、優先的に介入する、というものだ」
「介入?」
「メンタルチップの装着だ。自殺リスクが高いと判断された人物に、優先的にチップを装着する」
蒼は御堂を見た。
「それは本人の同意なしに?」
「緊急時には」と御堂は言った。「未成年の場合は保護者の同意で。そして、一定のリスク水準を超えた場合には、強制的に」
「強制的に、脳にチップを入れる」と蒼は繰り返した。
「命を救うためだ」
「でも感情を管理するのは機械で、本人ではない」
「本人が判断できない状態にあるから、助けが必要なんだ」と御堂は言った。「渡辺くん、昨夜、君がライ麦畑で引き留めた意識体の主は、崖の前にいた。本人の判断を尊重していたら、落ちていた」
蒼は黙っていた。
「ライ麦畑での接触は、技術的には不安定だ」と御堂は続けた。「毎回うまくいく保証はない。しかしチップを装着した人物は、物理的に自殺衝動が抑制される。より確実な方法だ」
「その人物の感情は、チップによって管理される」
「そうだ」
「それは——」
「救済だ」と御堂は言った。
蒼は御堂の目を見た。
真剣だった。嘘を言っているようには見えなかった。御堂は本当に、それが救済だと思っている。
しかしそれは間違っている、と蒼は感じた。なぜ間違っているのかを、うまく言葉にできなかった。でも確かに間違っている。
「その話は、もう少し考えさせてください」と蒼は言った。
「時間は——」と御堂は言いかけた。「わかった。明日の朝までに返事をしてくれ」
第五章 凛と蒼、現実で
その夜、凛から連絡が来た。
どうして連絡先がわかったのか、と思ったが、考えてみれば不思議だった。凛の名前は夢の中で聞いた。現実の世界では、蒼と凛は会ったことがない。
しかし美沙が「渡辺さん、この子から連絡先を教えてほしいという問い合わせが研究所に来ています」と言った。「昨夜、海沿いの崖で、声が聞こえた、という子です」
蒼は美沙を見た。
「なぜ研究所に?」
「量子意識研究所のHPに、体験談募集のフォームがあるんですよ。記入欄に『崖の前で声が聞こえた、渡辺蒼という名前を聞いた』と書いてあって」
蒼は連絡先を渡すことにした。
メッセージが届いた。
「あなたが渡辺さんですか? 昨夜、崖の前で——」
「そうだ」と蒼は返した。「無事でよかった」
「夢みたいで、信じられなくて」
「信じなくていい」と蒼は返した。「でも今日も、生きているか?」
「生きています」
「それでいい」
しばらく間があった。
「また、会いに来てくれますか?」と凛は聞いた。
「現実で会うか?」と蒼は返した。
「現実でも、あっちでも」
蒼は少し迷った後、「わかった」と返した。
翌週、蒼は凛と会った。研究所の近くのカフェで。凛はコートを着て、マフラーをしていた。実際に見ると、本当に子供だな、と蒼は思った。でも目に力があった。折れかけていたのに、まだ折れていなかった。
「昨夜のこと」と凛は言った。「どう説明するんですか?」
「説明は難しい」と蒼は言った。「信じてもらえないかもしれないが、俺は量子意識の研究者で、落ちかけた意識体に接触する能力がある、らしい」
「らしい、って」と凛は笑った。
「自分でもまだ信じ切れていないんだ」
「でも、助けてもらった」と凛は言った。「あの声がなかったら、わたし、戻ってこなかったかもしれない」
「よかった」と蒼は言った。
「なぜ助けてくれたんですか?」
蒼は少し間を置いた。
「十年前、助けられなかった人間がいる。今でも後悔している。だから今度は、声をかけたかった」
凛は蒼を見た。
「その人は?」
「タクヤという少年だった。同じアパートに住んでいた。今でも、その踏切のそばを通るたびに手を合わせている」
凛は何かを考えるように、カップを見つめた。
「わたしも、迷惑かけた人たちに、謝りに行けてない」
「急がなくていい」と蒼は言った。「今は、ここにいることが大事だ」
第四部「建前ばかりの社会」
第一章 法案前夜
If a body meet a body
Need a body cry?
——バーンズ
感情フィルタリング法案は、国会で審議入りした。
二〇四三年三月。桜が咲く少し前、東京は薄い曇りが続いていた。
法案への賛否は世論を二分した。支持者は「自殺者数が劇的に減る可能性がある」と主張した。反対者は「国家による感情の管理は人間の自由を侵害する」と主張した。メディアはどちらの立場も報道し、コメンテーターはそれぞれの側の意見を述べた。
しかし蒼には、議論の根本的な部分が抜けているように感じられた。
誰も聞かない——「落ちていく人間は、感情を消したいのか?」という問いを。
凛と定期的に会うようになって、三ヶ月が経った。凛は少しずつ外に出られるようになり、週に二回、蒼の近くの商店街にある本屋でアルバイトを始めた。まだ学校には戻っていなかったが、高卒認定試験の勉強を始めていた。
「法案のこと、どう思う?」と凛はある日、言った。
「複雑だ」と蒼は言った。
「わたし、正直言うと、あのとき、感情が消えたらよかったと思ってた」と凛は言った。「炎上してる間中、感情を全部オフにしたかった。でも今は——」
「今は?」
「消えなくてよかった、と思う。消えてたら、この本屋でバイトして、読んでない本がたくさんあって、おもしろいな、って思えなかった」
「そういうことだ」と蒼は言った。
「でも、全員がわたしみたいに思えるとは限らない。わたしが戻ってこれたのは、あなたが来てくれたから。来てくれる人がいなかったら?」
「それが問題なんだ」と蒼は言った。
蒼には、答えが出ていなかった。
機械に委ねてはいけない、とジョンは言った。しかし現実には、すべての落ちかけた意識に蒼のような人間が届くわけではない。届けられない命が確かにある。
どちらが正しいのか、蒼にはわからなかった。
第二章 御堂の過去
美沙が蒼に話しかけてきたのは、ある夜遅くのことだった。
「渡辺さん、御堂所長のことで話したいことがある」
二人で研究所の外のベンチに座った。夜風が冷たかった。
「所長は、昔、息子さんを亡くされています」と美沙は言った。
蒼は黙って聞いた。
「二十年前です。十六歳の息子さんが、自殺で。学校のいじめが原因だったと言われていて——当時はSNSはまだそこまで普及していませんでしたが、学校内でのいじめがひどかったようです」
「それで、意識研究所を——」
「所長はもともと物理学者でした。息子さんを亡くしてから、量子意識の研究に転向した。感情フィルタリング法案を推進しているのは、息子を失ったあの経験が、原動力になっているんだと思います」
蒼は夜空を見た。星は見えなかった。東京の光が空を染めていた。
「だからと言って、法案が正しいわけじゃないが」
「わかっています」と美沙は言った。「でも、所長が機械でないことも知っておいてほしくて」
「なぜ今、それを?」
「明日、所長が決断する前に」と美沙は言った。「渡辺さんが所長に何かを言うとしたら——正しい言葉で言ってほしかった。怒りからではなく」
蒼は美沙を見た。
「俺は怒っているように見えるか?」
「少し」と美沙は言った。「正義から来る怒りは、人を説得しない。経験から来る言葉だけが届く」
蒼は頷いた。
「ありがとう、加納」
「渡辺さん」と美沙は言った。「あのジョンって、本当に——あのジョンなんですか?」
「なぜそう思う?」
「チャップマン、という名前が出た時から。そしてジョンという名前。あのジョン・レノンですか?」
蒼は答えなかった。答える代わりに、「もし仮説が正しいとしたら」と言った。「彼は今でも、誰かを助けようとしている」
「素敵ですね」と美沙は小さく言った。
第三章 ジョンの怒り
その夜の夢の中で、ジョンは怒っていた。
今まで感情を抑えていたジョンが、珍しく感情を顕わにしていた。麦畑の中を歩きながら、止まっては考え、また歩き始める。
「感情フィルタリング法案が国会を通る可能性がある」と蒼が言った。
「知っている」とジョンは言った。「このライ麦畑にも、影響が出ている」
「どんな影響が?」
「落ちてくる意識の数が変わってきた。法案の審議が始まってから、ある種の波形が増えている。怒りを抑制された意識体が、歪んだ形で落ちてくる。チップを装着された人間の一部が、感情を消されることで別の形で崩壊している」
「それは実データとして取れるのか?」
「ここにあるものは、数字ではない。感覚だ」とジョンは言った。「感情を消された人間の意識は、麦畑に来たとき、形が違う。輪郭がない。声がない。ただ漂っている。キャッチャーがつかまえようとしても、掴む手がない」
蒼は考えた。
「つまり、チップを装着された人間は、ライ麦畑でも助けられない?」
「すべてがそうではないが、一部は——そうなる可能性がある」とジョンは言った。「感情は人間が人間を認識する手がかりだ。感情のない意識は、他の意識と繋がれない。孤立する」
「それを御堂に伝えたい」と蒼は言った。
「言葉で伝えても、信じないだろう」とジョンは言った。「彼には、自分の息子を失った傷がある。その傷が、理性より大きい」
「わかっている」
「しかし」とジョンは言った。「それでも言うべきだ。届かなくても、言うべきことは言わなければならない。黙っていることは、最終的には何も変えない」
チャップマンが現れた。いつの間にか、近くにいた。
「俺も聞いていた」とチャップマンは言った。
「聞いていたか」とジョンは言った。二人の間に、複雑な空気が流れた。
「俺は——」とチャップマンは言った。「あの日、感情を消せていたら、あんなことはしなかったかもしれない。でも、感情を消せていたら、あいつの音楽にここまで惚れることもなかった」
「それは正しい」とジョンは言った。声が少し柔らかくなった。
「魂を殺すのは、ライフルだけじゃない、か」とチャップマンは言った。「お前の言葉か?」
「俺の言葉だ」
「名言だな」とチャップマンは言った。そして皮肉ではなく、本当にそう思っているような顔をした。
「チャップマン」と蒼は言った。「明日、重要なことがある。俺は現実の世界で、研究所の所長に会う。あなたが今言ったことを、話してもいいか?」
「俺の話を?」
「感情があったからこそ、その感情があなたを壊したが、感情があったからこそ、音楽を愛した。その両方が同じ根っこにある、という話だ」
チャップマンは少し考えた。
「使っていい」と彼は言った。「俺の話が何かの役に立つなら、使っていい。今さら、名誉とかそういうものはどうでもいい」
第四章 御堂への言葉
翌朝、蒼は御堂の部屋に行った。
「決断は出たか?」と御堂は言った。
「はい」と蒼は言った。「法案への協力は、できません」
御堂の表情は変わらなかった。
「理由を聞こう」
蒼は話した。
ライ麦畑で見てきたこと。感情を消された意識体の状態。チャップマンの言葉。そして——。
「所長、息子さんのことを聞きました」
御堂の目が、初めて揺れた。
「余計なことを聞いた者がいるな」
「誰かを責めるつもりはありません」と蒼は言った。「ただ——息子さんが、最後に感情を消せていたとして、所長はそれで救われたと思いますか?」
「息子は生きていたかもしれない」
「でも」と蒼は言った。「息子さんはもう、息子さんでなかったかもしれない。怒りも、悲しみも、楽しいことも——それらを感じる息子さんではなくなっていたかもしれない」
「それでも生きている方がいい」と御堂は言った。
「本人がそう望んでいるかどうかは、わからない」
「本人に選ばせれば、死を選ぶ者もいる」
「それが自由です」と蒼は言った。「自由は、危険を含む。でも自由のない命に、どれほどの価値があるか」
御堂は窓の外を見た。庭の桜が、咲き始めていた。
「渡辺くん」と御堂は言った。「君が正しいかもしれない。しかし、私には息子の顔が見えるんだ。あの子が死ぬ前夜の顔が。あの顔を見ると——どんな理屈も、どんな自由も、薄く見える」
蒼は御堂を見た。
「それが人間です」と蒼は言った。「所長が感じていることが、人間の感情です。それを消すことを、法律で決めることはできない」
長い沈黙があった。
桜の花びらが一枚、窓の外を舞った。
「考える時間をくれ」と御堂は言った。それが精一杯だった。
第五章 チャップマンの理解
その夜の夢で、チャップマンが泣いていた。
麦畑の中に座り込んで、本を胸に抱いて、泣いていた。
蒼は近づいた。隣に座った。
「何があった?」
「何でもない」とチャップマンは言った。「ただ、やっとわかったことがある」
「何が?」
「俺があんなことをした理由が」とチャップマンは言った。「四十年以上かけて、やっとわかった」
「教えてほしいか?」と蒼は聞いた。
「わからない」とチャップマンは言った。「教えて、楽になれるかもわからない。でも——俺は、俺自身に生きる価値がないと思っていた。あの頃。誰かに認めてもらいたかった。あいつを——ジョンを——俺の人生から消せば、あいつが偽物だと証明できれば、俺の空虚さが満たされると思っていた」
「でも」と蒼は言った。
「でも、何も満たされなかった」とチャップマンは言った。「当然だ。空虚さは、外を壊しても埋まらない。俺の中にあったものだから」
蒼は何も言わなかった。言う必要がなかった。
「あいつに謝りたい」とチャップマンは言った。「謝っても意味がない。謝ったところで、消えたものは戻らない。でも——謝りたい」
ジョンが来た。いつの間にか、そこにいた。
チャップマンはジョンを見た。ジョンはチャップマンを見た。
何も言わなかった。
二人はしばらく、ただ向き合っていた。
チャップマンが「すまなかった」と言った。英語で言った。
ジョンは頷いた。
それだけだった。
それで十分だった。
蒼は目が覚めた後、ノートに書いた。
「赦しとは、言葉ではなく、向き合うことかもしれない」
第五部「地上を越えた」
第一章 四つの意識が交わる夜
If a body catch a body
Coming through the rye——
誰も問わなかったとしても
身体は身体をつかまえる
——渡辺蒼のノートより
四月のある夜、蒼は研究所の場観測室で一人、スクリーンを見ていた。
午前二時を過ぎていた。
美沙は帰っていた。御堂は三日前から姿を見せていなかった。法案への態度を決めかねているのか、あるいは別の何かを考えているのか、蒼にはわからなかった。
スクリーンに、波形が出た。
Ω波だったが、今まで見たどのΩ波とも違う形をしていた。単体の波形ではなく、複数の波形が重なり合っている。四つ、と蒼は数えた。四つの意識場が、同時に共鳴している。
そういう波形を、蒼は見たことがなかった。
ノートに「四重共鳴」と書いた。
観測ベッドに横になった。
目を閉じた。
麦畑を思った。
行けた。
しかし今夜の麦畑は、違った。
空の色が、今まで見たどの夜よりも深い青をしていた。星が出ていた。麦の穂は光を含んでいるように白く光り、風が渡るたびに波のように輝いた。
そしてそこに、三人がいた。
ジョン。チャップマン。そして凛。
三人が麦畑の中に立っていて、蒼が来るのを待っていた。
「来た」とジョンが言った。
「全員がここに?」と蒼は言った。
「珍しいことだ」とジョンは言った。「四つの意識が同時にここに集まることは、ほとんどない。何かが引き寄せている」
「引き寄せているもの?」
「緊急事態だ」とジョンは言った。
蒼は凛を見た。凛は今夜、夢を見ているのか、それとも意識の一部がここに来ているのか——表情は穏やかだったが、目は澄んでいた。
「何が起きている?」と蒼は聞いた。
「感情フィルタリング法案が、明日の本会議で採決される」とジョンは言った。「そして——御堂所長が、賛成票を投じる方向で動いている」
「何?」
「今夜、官僚から電話があった。研究所の予算と引き換えに、所長は賛成に回ることを求められている」
「どうしてあなたがそれを知っている?」
「ここから見えることがある」とジョンは言った。「すべてではないが、重要な分岐点では、見えることがある」
蒼は考えた。
「止められるか?」
「法案そのものは止められないかもしれない」とジョンは言った。「しかし、研究所の協力を止めることはできる。研究所が独立した立場を保てば、後の抵抗が可能になる」
「御堂を止める方法は?」
チャップマンが口を開いた。
「俺が言ってもいい言葉かわからないが」とチャップマンは言った。「正しいことを声に出して言わなければ、何も変わらない。それだけだ。俺はあの夜、正しいことを考える力を失っていた。だから間違ったことをした。正しく考えられる者が、正しいことを言わなければ——」
「でも」と凛が言った。「正しいことを言っても、聞かない人は聞かない」
「そうだ」とチャップマンは言った。「でも、言った、という事実は残る。黙っていたら、何も残らない」
蒼は四人を見回した。
麦畑の中の、奇妙な集会だった。生者と死者と、夢の中の少女と。しかし今夜だけは、それが自然に感じられた。
「俺は」と蒼は言った。「明朝、御堂に会う。言うべきことを言う」
「それで十分だ」とジョンは言った。
「十分じゃないかもしれない」と蒼は言った。「でも、それしかできない」
凛が蒼に近づいた。
「渡辺さん」と凛は言った。「わたしも行きます。現実の世界で、わたしも行く。わたしも話せることがある」
「あなたは関係ない」
「関係ある」と凛は言った。「わたしは落ちかけた人間の一人だ。わたしが話せることが、あると思う」
蒼は凛を見た。
十七歳で、崖の前まで行って、戻ってきた少女。
「わかった」と蒼は言った。「一緒に行こう」
ジョンが空を見上げた。
星が流れた。一つ、二つ、三つ。
「蒼」とジョンは言った。「今夜、私は少し遠くに行く」
「どこへ?」
「昇る方向だ」とジョンは言った。「完全にではない。また戻ってくる。しかし、一度、上から全体を見てみたい」
「なぜ今夜?」
「四人が集まったから」とジョンは言った。「この場所が、今夜だけ特別に安定している。私が少し離れても、崩れない」
チャップマンが「行ってこい」と言った。その言葉には、複雑なものが詰まっていた。
ジョンはチャップマンを見た。
「お前は?」とジョンは言った。
「俺は——少しここに残る」とチャップマンは言った。「キャッチャーを、やってみようと思う。うまくできるかわからないが」
ジョンは頷いた。
そして光になった。
オーブではなく、もっと大きな光。上昇気流のように、ゆっくりと、しかし確実に、上へ上へと昇っていった。
地上を越えた。
見下ろせばライ麦畑だった。
蒼はその光を見ていた。遠くなって、星の中に溶けて、見えなくなった。
第二章 御堂の選択
翌朝、蒼は凛と一緒に研究所に行った。
受付で「緊急面談の申請をしたい」と言った。「所長室へ。二人で」
美沙が廊下で蒼を捕まえた。
「渡辺さん、所長、今朝から様子がおかしい。何か知ってますか?」
「話がある」と蒼は言った。
「この方は?」
「早川凛さん。一緒に来てもらった」
美沙は凛を見た。凛は少し緊張した顔をしていたが、目を逸らさなかった。
「わかりました」と美沙は言った。「私も、ついて行っていいですか?」
「来てほしい」と蒼は言った。
所長室に入ると、御堂は立ったまま窓の外を見ていた。振り返ったとき、その顔には珍しく疲れが出ていた。
「渡辺くん、その方は?」
「早川凛さんです」と蒼は言った。「三ヶ月前、海沿いの崖の前にいた方です」
御堂は凛を見た。
「私がライ麦畑で接触した方です」と蒼は続けた。「今日、ここに来てもらいました。所長に直接、話してほしいことがあると言ったので」
御堂は椅子に座った。
「聞こう」
凛は一歩前に出た。緊張しているのが、蒼にも伝わった。しかし凛は話し始めた。
「わたし、あの夜、感情が全部消えたらよかったと思っていました」と凛は言った。「炎上して、怖くて、全部消えてしまえばいいと思っていた。でも今は——消えなくてよかった、と思っています」
「なぜ変わった?」と御堂は言った。
「渡辺さんの声が聞こえたから、だけじゃないです」と凛は言った。「戻ってきてから、少しずつ、いいことがあったんです。本屋でバイトして、読んでない本がたくさんあって、面白いと思えた。それだけのことです。でも、感情が消えていたら、その面白さを感じられなかった。感情を消されて生きていたとして、わたしは生きていると言えるか、わかりません」
御堂は凛を見続けていた。
「息子さんのことを聞きました」と凛は続けた。「勝手なことを言いますが——息子さんは、感情が消えた状態で生きていたとして、お父さんのことを好きだと感じられましたか?」
御堂の喉が動いた。
「わかりません」と御堂は静かに言った。
「わたしもわかりません」と凛は言った。「ただ、わたしが戻ってこれたのは、感情があったからだと思います。怖かった。でも、怖いという感情があったから、逃げることもできた。コンビニに入れた。お母さんに電話できた」
沈黙があった。
長い沈黙だった。
御堂は窓の外を見た。桜は満開を過ぎ、花びらが散り始めていた。
「法案の採決は、今日の午後だ」と御堂は言った。
「研究所として、反対の声明を出すことはできますか?」と蒼は言った。
「政治的な立場を取ることは——」
「難しいのはわかっています」と蒼は言った。「でも、技術的な観点から、懸念を表明することはできる。感情を抑制された意識体が、量子場において孤立するリスクがある——それは実際に観測されているデータです」
「データとして提出できるか?」
「美沙が整理してくれています」
御堂は美沙を見た。美沙は頷いた。
「データを見せろ」と御堂は言った。「見た上で、判断する」
第三章 採決の日
午前中いっぱいかけて、美沙はデータをまとめた。
感情フィルタリング実験の試験段階で、チップ装着者の意識場に生じた異変のデータだった。予備実験の段階で、一部の被験者に「意識の孤立化」と呼べる現象が起きていた。外からは普通に見えるが、量子場の計測では他の意識体との共鳴が消えていた。
「これは」と御堂はデータを見ながら言った。「正式な論文として出ていないデータだな」
「予備実験の段階のものです」と美沙は言った。「でも、統計的に有意です」
「法案推進側はこれを知っているか?」
「共有されていない可能性があります」
御堂はしばらく沈黙した。
「渡辺くん」と御堂は言った。
「はい」
「このデータを、緊急の学術的懸念として、今日の採決前に公表することを提案する。研究所の名前で。私の決断だ」
蒼は御堂を見た。
「それは、政府の意向に反する可能性があります」
「わかっている」と御堂は言った。「しかし科学者として、データを隠すことはできない」
美沙が「すぐ準備します」と言って、部屋を出た。
凛が蒼の隣に立っていた。その顔には、安堵に近いものがあった。
「御堂所長」と凛は言った。「息子さんは、お父さんのことが好きでしたよね、きっと」
御堂は凛を見た。目の奥が揺れた。
「なぜそう思う?」
「あなたが今、こうして動いているのを見て、思いました」と凛は言った。「息子さんの記憶が、あなたを動かしているんだと思うから。愛されていた子は、愛した人を動かす力を持っていると思うから」
御堂は何も言わなかった。
しかし窓の方を向いたとき、その肩が少し落ちているのを、蒼は見た。
午後三時、研究所の公式見解として「感情フィルタリング技術の倫理的・量子的リスクに関する緊急声明」が発表された。
法案は否決されなかった。しかし採決は延期になった。再審議となった。
それで十分だった、と蒼は思った。
すべてが止まったわけではない。問題は続く。しかし今日、正しいことを言った。その事実は残る。
第四章 ジョンが戻ってきた夜
その夜の夢で、ジョンが戻ってきた。
麦畑の上空から、光が降りてきた。ゆっくりと、しかし確実に。
着地したとき、ジョンは人の形をしていた。
「どうだった?」と蒼は聞いた。
「広かった」とジョンは言った。「地上を越えると、ずっと続く。果てがない」
「怖くなかったか?」
「怖かった」とジョンは言った。「でも、孤独ではなかった。あちこちに、同じような光があった。昇っていった者たちの光が」
「あなたはまた戻ってきた」
「まだやることがある」とジョンは言った。「チャップマンに教えなければならないことがある。そして——」
「そして?」
「お前に、一つだけ言っておきたいことがある」
「何だ?」
ジョンは蒼を見た。眼鏡の奥の目が、穏やかに光っていた。
「タクヤという少年のことだ」
蒼は息を飲んだ。
「あの夜、お前が声をかけなかったことを、ずっと後悔していると言った」
「そうだ」
「あの少年は、お前のことを覚えていた」とジョンは言った。「ここで会った。ずっと前に」
「覚えていた?」
「自動販売機の前で小銭を拾ってくれた人だと。エレベーターでお礼を言った人だと。覚えていた。お前のことを、悪い人間ではないと思っていた」
蒼は何も言えなかった。
「声をかけなかったことは、変えられない」とジョンは続けた。「しかし、声をかけようとしていた、ということは本当だった。その気持ちは、伝わっていたかもしれない。人の善意は、言葉になる前に届くことがある」
「でも、救えなかった」
「救えなかった」とジョンは言った。「それは事実だ。でも、お前が声をかけなかったから死んだのではない。複雑な理由があった。お前一人が背負う話ではない」
蒼は麦畑の地面を見た。土が、リアルに感じられた。
「それでも」と蒼は言った。「後悔は消えない」
「消えなくていい」とジョンは言った。「後悔が消えないから、お前は凛を助けに行けた。タクヤへの後悔が、お前をキャッチャーにした。無駄な後悔など、一つもない」
蒼は顔を上げた。
「ありがとう」と蒼は言った。
「お礼を言うのはこちらだ」とジョンは言った。「お前が来てくれたから、私はようやく昇ることができた。一度だが、昇れた。それで十分だ」
第五章 電車のアナウンス
翌朝、蒼は駅に向かった。
いつもの道を歩いた。踏切の前で立ち止まった。花があった。白い菊と、向日葵。
蒼は手を合わせた。
タクヤ。
今日は名前を声に出した。
「タクヤ、お前の小銭を拾ったこと、覚えてるか。俺はあれからずっと、声をかければよかったと思っていた。でも、あの夜、俺はお前のことを心配していた。それだけは本当だ」
風が吹いた。向日葵の花びらが揺れた。
「ありがとう」と蒼は言った。何に対してのありがとうか、うまく言えなかった。でも、言いたかった。
踏切を後にして、駅へ向かった。
電車に乗った。
途中の駅で、アナウンスが流れた。
「ただいま、○○線は人身事故の影響により——」
いつもと同じアナウンスだった。
しかし今朝は、続きが違った。
「——運転を一時見合わせております。ご乗車中のお客様に、ご不便をおかけしていることを深くお詫び申し上げます。そして——」
女性のアナウンスの声が、一瞬、詰まった。
「——そこにいた方が、誰かに声をかけてもらえていたら、と思います。何かお困りのことがあれば、駅員までお声がけください」
電車の中が、静かになった。
スマートフォンを見ていた人が、顔を上げた。イヤホンをしていた人が、耳から外した。皆が、少し、止まった。
蒼は窓の外を見た。
春の光の中を、電車が走っていた。
エピローグ ライ麦畑、今日も
五月になった。
凛は高卒認定試験の勉強を続けていた。本屋でのバイトは週三日になった。「大学で文学を勉強したい」と、ある日、蒼に言った。
「どんな文学を?」と蒼は聞いた。
「いろいろ。でも、人が生きることを書いた本を読みたい。ライ麦畑のキャッチャーみたいな話を、もっと読みたい」
「サリンジャーを読んだか?」
「読みました。ホールデン、好きです。嘘くさいものが嫌いなところ」
「俺も好きだ」と蒼は言った。
美沙は感情フィルタリング法案の再審議に向けて、論文をまとめ始めた。量子場における意識の孤立化について、世界で初めて学術的に記述する論文になる予定だった。
「渡辺さん、共著者になりますか?」と美沙は聞いた。
「俺は観測員だ」
「でも、実際にキャッチャーとして機能した唯一の人間です。その体験記は一次資料になります」
「考える」と蒼は言った。
御堂は以前よりも少し、表情が柔らかくなった気がした。完全に変わったわけではない。まだ「機械」に近い人間だった。しかし朝、廊下で会ったとき、「おはよう」と言った。今まで言ったことのない挨拶だった。
「おはようございます」と蒼は言った。
それだけだったが、十分だった。
夢の中で、チャップマンは今日もライ麦畑にいた。
最初は戸惑いながらだったが、少しずつ、落ちていく意識体への近づき方を覚え始めた。ジョンが横でアドバイスした。チャップマンは素直に聞いた。
「うまくなってきた」とジョンは言った。
「俺に言えることが、あるのかもしれない」とチャップマンは言った。「壊れていた人間として、壊れかけている人間に」
「それが何より強い言葉になる」とジョンは言った。
蒼は今日も場観測室でスクリーンを見ている。
数値の流れを見ている。ほとんどは雑音だ。しかし時々、Ω波が出る。落ちていく誰かの波形が出る。
そのとき蒼は、観測ベッドに横になる。
目を閉じる。
麦畑を思う。
薄紫の空。揺れる穂。土の匂い。
そこへ向かう。
ライ麦畑の捕獲者は、今日も、そこにいる。
—— 了 ——
あとがき
建前ばかりの社会、本音とは裏腹な言葉、カネのために自由を捨てる人間たち——そうした現実の中で、落ちていく若者たちを救おうとする役目は「僕しか出来ない」と語る詩の声。その声が持つ切実さと孤独から、この小説は始まった。
ライ麦畑のキャッチャーとは、落ちていく者を崖の手前でつかまえる者のことだ。J・D・サリンジャーが書き、ホールデン・コールフィールドが夢想した、その役目を、この物語の中では文字通り、死者と生者が共に担う。
1980年12月8日、ジョン・レノンはチャップマンによって撃たれた。チャップマンは『キャッチャー・イン・ザ・ライ』を手にしていた。その本が殺意を生んだのではない。しかしその本が、壊れた心の拠り所になり、現実を侵食していった。文学は毒にもなる。だが、毒にもなれるほど、文学は生きているとも言える。
日本では、今日も「人身事故」のアナウンスが流れる。
テレビでは、表情を変えずにアナウンサーがそれを告げる。
踏切には花が絶えない。
誰かが、もう少し気遣えていたなら——という後悔を、この物語の中心に置いた。その後悔は消えない。消えなくていい。後悔が人を動かすこともある。
落ちていく者へ手を伸ばすことは、特別な能力ではない。
ただ、声をかけること。
ただ、そこにいること。
ただ、もう一度話しかけること。
それだけが、今日もどこかのライ麦畑で、誰かを引き留めている。


