『ライ麦畑の捕獲者』
The Catcher in the Rye Field
―― 意識・夢・死後の世界 ――
まえがき
If a body meet a body
Coming through the rye;
If a body kiss a body,
Need a body cry?
この詩を知ったのは、高校の図書室だった。
落ちていく誰かを、崖の手前でつかまえる。
J.D.サリンジャーはそれを「キャッチャー」と呼んだ。
大人になった今も、電車は止まる。
「人身事故の影響により」と、感情のないアナウンスが流れる。
その時、誰もがため息をつき、迂回ルートを検索する。
誰も問わない。
なぜ、救えなかったのか、と。
この物語は、一つの後悔から始まる。
声をかけなかった夜。
かけていれば変わったかもしれない人生。
その後悔を抱えた男が、夢の中で「ライ麦畑」に辿り着く。
そこで彼は、死者と、加害者と、落ちていく少女に出会う。
建前ばかりの社会で、本音は消えていく。
感情を機械で管理しようとする法律が生まれようとしている。
その時、人間を人間たらしめるものは何か。
魂を殺すのは、ライフルだけではないとしたら。
これは、SFであり、幽霊譚であり、再生の物語です。
そして何より、「声をかけるか、かけないか」という、
たったそれだけの選択についての物語です。
ページを捲る前に、一つだけ。
あなたが今日、誰かに声をかけるとしたら、
それは誰ですか。
第一部「夢にいた」
第一章 人身事故
If a body meet a body coming through the rye.
——ロバート・バーンズ
電車が止まっている。
渡辺蒼は改札の前で立ち尽くし、天井のスピーカーから流れてくるアナウンスを聞いていた。
「ただいま、○○線は人身事故の影響により、運転を見合わせております。お急ぎのところ、大変ご不便をおかけいたします」
女性の声は滑らかで、感情というものを一切持ち合わせていないように聞こえた。人身事故。その四文字が空気の中に溶け込み、やがて何事もなかったかのように消えていく。乗客たちはため息をつき、スマートフォンを取り出し、迂回ルートを検索し始める。誰も立ち止まらない。誰も問わない。
なぜ、救えなかったのか、と。
蒼は三十四歳で、国立意識研究所の観測部門に勤めていた。肩書きは「意識場解析技術員補佐」というものだったが、実際にやっていることは膨大なデータのモニタリングと、異常値が出たときのアラート処理だ。研究所の本棟から離れた別館の薄暗い部屋で、一日中スクリーンを見つめている。
今日も残業だった。終電一本前の電車を逃し、最終電車に乗ろうとしたところで、この「人身事故」だ。
蒼は改札の脇のベンチに腰を下ろした。隣に座っていた老人がのそりと立ち上がり、どこかへ去っていく。ベンチに一人残された蒼は、膝の上に手を置いたまま、動かなかった。
人身事故、という言葉が嫌いだった。
正確には、その言葉を何の表情もなく告げるアナウンスが嫌いだった。そこには人がいたのだ。名前があり、顔があり、誰かに愛されていたかもしれない人間が、線路の上で一つの「事故」になった。それをたった四文字で片付けて、乗客の皆様にご不便をおかけします、と続ける。
なぜ、と言わないのか。
なぜ、その人は落ちていったのか、と。
蒼の脳裏に、十年前の記憶が浮かんだ。
あの夏、蒼は二十四歳で、実家近くのアパートに住んでいた。隣の棟に、田中という家族が越してきたのは前の年の春だった。田中家には息子が一人いて、名前は確か、タクヤといった。高校三年生で、痩せていて、いつも俯いて歩いていた。
蒼はタクヤと何度か話したことがあった。エレベーターで一緒になったとき、自動販売機の前で小銭を落としたのを拾ってあげたとき。タクヤは必ずお礼を言ったが、その声は掠れていて、視線はいつも蒼の胸のあたりに向いていた。目が合うことは、ほとんどなかった。
ある日の夜、蒼はアパートの駐車場でタクヤを見かけた。深夜の一時ごろだったと思う。タクヤは駐車場の端に立ち、暗い空を見上げていた。蒼は声をかけようとした。かけようとして、やめた。
声をかけるべき理由が、うまく言語化できなかったのだ。深夜に空を見上げる十八歳の少年。それだけで、何かがおかしいと気づくべきだったのに、蒼は「夜風に当たっているだけかもしれない」と思い、部屋に戻った。
三日後、タクヤは近くの踏切で電車に飛び込んだ。
蒼はそのことを、翌朝の地域ニュースで知った。
今でもその踏切の前を通るたびに、蒼は手を合わせる。花が供えられているとき、タクヤの母親がそこにいるときは、蒼は直前の路地に身を隠す。
顔を見ることができない。
なぜなら蒼には、あの夜に声をかけなかったという事実が、消えない棘のように刺さっているからだ。
もし声をかけていたら。
もし「どうした、寒くないか」と、ただそれだけを言えていたら。
答えは永遠にわからない。タクヤはもういない。踏切には花だけが残り、季節が変わるたびに花の種類が変わる。母親はまだ、花を供え続けている。
運転再開のアナウンスが流れた。
蒼は立ち上がり、改札を抜け、ホームへと向かった。電車が滑り込んでくる。どこか別の駅での出来事だった「人身事故」は、もう「解決」したらしい。人々が乗り込んでいく。蒼も乗った。
席に座り、窓の外を見た。
夜の街が流れていく。明かりの点いた窓、明かりの消えた窓、看板、電柱、フェンス。それらが束になってすり抜けていく。
蒼は目を閉じた。
眠ったわけではない。ただ目を閉じて、揺れに身を任せた。
そのとき、奇妙な感覚があった。
誰かに、追われているような。
いや、追っているような。
どちらかわからないまま、蒼は最寄り駅に着いた。
第二章 ライ麦畑の夢
その夜、蒼は夢を見た。
広大な麦畑だった。
空の色がおかしかった。青でも夜の黒でもなく、薄紫と灰色の中間のような、曖昧な色をしていた。麦は背丈ほどあり、風もないのにゆらゆらと揺れていた。麦の海の中に、蒼は立っていた。
夢だとわかっていた。夢だとわかっていながら、その場所の質感がやけにリアルだった。足の裏に伝わる土の感触、麦の葉が素肌をかすめる感触、空気に混じった土と草の匂い。
蒼は歩いた。どこへ向かうかわからないまま、ただ歩いた。
麦畑は果てしなく広がっていた。地平線の向こうまで続いていて、端も境界も見えなかった。ここがどこなのか、なぜここにいるのか、蒼にはわからなかった。
しばらく歩くと、声がした。
「やあ」
英語だった。
蒼は振り返った。
そこに男がいた。年齢は、言いにくかった。三十代にも五十代にも見えた。丸い眼鏡をかけていて、少し長めの髪が耳にかかっていた。白いシャツを着ていて、その輪郭がわずかに光を放っていた。正確には、光というより、存在そのものが空間から少し浮いているような感じだった。
「ここは」と蒼は言った。日本語で言ったのに、男には通じているようだった。
「ライ麦畑だよ」と男は言った。「知ってるだろう」
「知らない」
「知ってる」と男は言った。「お前の中にずっとあったはずだ」
蒼は男の顔を見た。どこかで見たことがあるような気がした。写真か、映像か、あるいは別の夢か。記憶の中を探ったが、名前は出てこなかった。
「お前は誰だ」
「ジョン」と男は言った。それだけだった。
「ジョンか」
「そう」
二人は麦畑の中に立ったまま、しばらく黙っていた。風が吹いた。麦が波のように揺れた。
「ここは何なんだ」と蒼は聞いた。
「境界だ」とジョンは言った。「落ちる者と、落ちない者の境界。落ちていく途中の人間が通る場所だ」
「落ちる?」
「死の方向へ」とジョンは言った。「崖から落ちるように、人は死へ向かう。そのとき、一瞬だけここを通る。麦畑を通る。ほとんどの人間は気づかない。気づく間もなく、落ち切ってしまう」
蒼は麦畑を見渡した。
「今、誰かが落ちているのか」
「常に」とジョンは言った。「この世界では、常に誰かが落ちている。お前には見えないだろうが、今もこの麦畑のどこかで、誰かが落ちている」
「止められるのか」
ジョンは蒼を見た。眼鏡の奥の目が、静かに光っていた。
「それが聞きたかった」とジョンは言った。「止められる。麦畑に意識を持った者がいれば、落ちていく者をつかまえることができる。それをキャッチャーと呼ぶ」
「キャッチャー」
「ライ麦畑のキャッチャーだ」
蒼は何かを言おうとした。しかしそのとき、遠くから音が聞こえた。
足音だった。
複数の、重たい足音。
ジョンの表情が変わった。明るい何かが消え、代わりに警戒の色が浮かんだ。
「来た」と彼は言った。
「誰が」
「チャップマンだ」
蒼は足音の方向を見た。麦の間から、人影が近づいてくるのが見えた。大柄な男で、片手に何か——本を持っていた。厚い本だった。
「逃げろ」とジョンが言った。
「なぜ」
「お前を殺そうとしている」
「俺を?」
「違う」とジョンは言った。「俺を。だが今は、お前に取り憑こうとしている」
蒼は走り始めた。理由はわからなかった。ただ走った。麦が顔を打ち、足が土にめり込んだ。後ろから足音が追ってくる気配があった。
走った。走った。麦畑の中を、どこへ向かうかわからないまま——。
目が覚めた。
天井の染みが見えた。自分の部屋だった。
時計は午前三時を指していた。
蒼はしばらく天井を見つめ、それから手の平を眺めた。汗をかいていた。心臓が速く打っていた。
夢だった。
しかしその質感は、普通の夢とは違っていた。土の感触。麦の匂い。ジョンという男の、静かな目。
蒼は起き上がり、水を飲んだ。
窓の外は、まだ暗かった。
第三章 意識研究所
国立意識研究所は、東京の外れにある。正式名称は「国立量子意識科学研究機構」といい、二〇三八年に設立された。設立の経緯は複雑だが、端的に言えば、量子コンピュータの発展によって「意識の物理的記述」が現実的になったことがきっかけだった。
人間の意識は、脳内の量子的プロセスによって生み出される——という仮説は二十世紀末から存在していたが、長らく証明不可能とされていた。それが二〇三〇年代に入り、量子センサー技術の飛躍的な進歩によって、意識状態を外部から観測できるようになった。観測できるということは、記述できるということだ。記述できるということは、複製できるということかもしれない。
研究所の本館では、主任研究員たちが意識の「写像」実験を続けていた。被験者の脳に量子センサーを取り付け、意識状態をリアルタイムで数値化し、その波形パターンを解析する。目指しているのは、意識の完全なコピーだった。
蒼が働いているのは、本館から百メートルほど離れた別館Bだった。ここには「場観測室」という部屋があり、蒼はそこで毎日十時間ほどを過ごしていた。
場観測室の仕事は、地味だった。
世界中に設置された量子センサーのネットワークから、「意識場の乱れ」を検知する。人間の意識が激しく揺れるとき——感情の高まり、意識の喪失、あるいは死の接近——そこに特殊な量子波形が現れる。それを二十四時間モニタリングして、異常値が出たときにアラートを上げる。
理論的には、自殺の直前にも特殊な波形が出るはずだった。その波形を捕捉することができれば、介入が可能になるかもしれない——というのが研究所の、表向きの目的の一つだった。
しかし蒼が実際に見ているのは、膨大な数値の流れだった。ほとんどは雑音だった。たまに異常値が出ると、それをログに記録し、解析チームに転送する。それだけだった。
今日も蒼はスクリーンの前に座り、数値を眺めていた。
「渡辺さん」
声をかけてきたのは、同僚の加納美沙だった。三十歳で、蒼より四年後輩だ。理系の大学院を出た後、研究所に入ってきた。頭が良く、要領も良く、なぜかこの薄暗い部屋で満足そうに働いていた。
「昨夜、波形に何か出ましたか?」と美沙は聞いた。
「三時頃に微妙な揺れがあった」と蒼は言った。「でも閾値以下だから、ログだけ記録した」
「三時頃」と美沙は繰り返した。何かを考えるように、視線を宙に向けた。「渡辺さん、その時間、何してましたか?」
「寝てた。夢を見てた」
「どんな夢?」
蒼は少し間を置いた。
「麦畑の夢だ。変な夢だった」
美沙の表情が、わずかに動いた。目が細くなり、口元が引き締まった。蒼にはそれが「興味深い」というサインだと、三年の付き合いでわかっていた。
「麦畑」と美沙は言った。「ライ麦畑?」
「たぶんそうだ。なぜ?」
「その波形ね」と美沙は言い、蒼のスクリーンに近づいた。「渡辺さんの観測端末、一番感度が高い設定にしてあるじゃないですか。三時頃の波形、もう一度見せてもらえますか?」
蒼はログを遡った。午前二時五十七分、微細な波形の乱れがあった。一般的な閾値よりも小さく、蒼はそれを「気象ノイズ」として処理していた。
「これですか?」
「そう」と美沙は言った。「これ、実は所長が探していたパターンと一致するんです」
「所長が?」
「御堂所長です。このパターン、私には言えないんですけど、かなり重要な波形らしくて。渡辺さん、明日の午前中に所長室に来るよう言われてます」
蒼は美沙を見た。
「俺が? なぜ?」
「さあ」と美沙は言った。でも目が笑っていなかった。「でも、急いだ方がいいと思います」
第四章 御堂所長
所長室は本館の最上階にあった。
蒼が入ったのは翌朝だった。広い部屋で、南向きの窓から研究所の庭が見えた。庭には木が植えられていて、その向こうに東京の街が広がっていた。
御堂圭一所長は、五十七歳だった。白髪交じりの髪を短く刈り、細い金縁の眼鏡をかけていた。スーツは常に黒か濃紺で、感情を表に出すことをほとんどしない人間だった。研究所内では「機械」と陰で呼ばれていたが、蒼はその呼び方があまり好きではなかった。
御堂は蒼が入ってきても立ち上がらず、机の前に座ったまま、書類を見ていた。
「渡辺くん、座りたまえ」
蒼は向かいの椅子に腰を下ろした。
「昨夜の波形について聞きたい」と御堂は言った。「三時頃に発生した量子場の揺れだ」
「加納から聞きました。気象ノイズとして処理していましたが」
「ノイズではない」と御堂は言った。「あれは、Ω波形と呼んでいる特殊なパターンだ。意識場に通常とは異なる構造変化が生じたときに現れる。具体的に言えば、人間の意識が通常の覚醒状態でも、通常の睡眠状態でもない、第三の状態に入ったときだ」
「第三の状態?」
「夢を見ていたと言ったな」
「はい」
「どんな夢だった?」
蒼は昨夜の夢を話した。麦畑、ジョンという男、チャップマンという名前、キャッチャー。話しながら、馬鹿げていると思った。しかし御堂の表情は変わらなかった。
「ジョンと名乗った、か」と御堂は言った。
「そうです。ただの夢だと思いますが」
「そうかもしれない」と御堂は言った。「あるいは、そうではないかもしれない」
御堂は立ち上がり、窓の方へ歩いた。庭を見ながら、続けた。
「我々の研究の中に、仮称『ライ麦畑仮説』というものがある。まだ学会には発表していない、未検証の理論だ」
「ライ麦畑」と蒼は繰り返した。夢の中の言葉と同じだった。
「人間の意識は、死の直前に特殊な量子状態に移行する。その状態を我々は便宜上、ライ麦畑と呼んでいる。なぜなら、その状態を経験した者が——蘇生した自殺未遂者や、臨死体験者が——口を揃えて『広い野原にいた』と証言するからだ。麦畑、草原、平原。表現は様々だが、共通しているのは『広大な場所で、誰かの存在を感じた』という点だ」
蒼は黙って聞いた。
「ライ麦畑仮説によれば、死の直前の意識は一時的に量子もつれ状態になる。その瞬間、時間の制約を受けずに、他の意識体と接触できる可能性がある。我々はこれを『意識場の共鳴』と呼んでいる」
「つまり」と蒼は言った。「死んだ人間の意識が、今もどこかに存在していて、死にかけている人間と接触できる、と?」
「証明されていない」と御堂は言った。「だが、昨夜の波形は興味深い。渡辺くんが夢を見た時間帯と、波形の発生時間が一致している。そして君はその夢の中で、ライ麦畑という空間を経験した」
「偶然では?」
「そうかもしれない」と御堂は言った。「しかし我々は、その偶然を十分に調べる義務がある」
しばらく沈黙が続いた。
「渡辺くん、君に頼みたいことがある」
「何でしょう」
「毎朝、夢の内容を記録してほしい。そして、その記録を私に提出してほしい。もし再びあの波形が発生したとき、同じような夢を見ていたなら、それは偶然ではない」
蒼は考えた。
「わかりました」
「もう一つ」と御堂は言った。「チャップマンという名前が出たな」
「はい」
「そのことは、他の誰にも話すな」
蒼は御堂の目を見た。何かを隠しているような目ではなかった。むしろ、何かを知りすぎているような目だった。
第五章 花
その日の帰り道、蒼は踏切の前に立った。
意図してではなかった。気がついたら、そこにいた。
夕方の光の中で、花束が供えられていた。白い菊と、小さな向日葵が一本。向日葵はまだ新鮮で、今日供えられたものだろうとわかった。
蒼は立ち止まり、手を合わせた。
タクヤ。
声に出さずに名前を呼んだ。十年前に死んだ少年の名前を。
あの夜、声をかけていれば。
ただ「寒くないか」と言えていれば。
答えは永遠に出ない。しかし蒼の中で、その問いは消えることがなかった。石のように沈んで、心の底にずっとある。踏切を通るたびに、その石の重さを感じる。
花の前から離れようとしたとき、路地の方から人影が来た。
タクヤの母親だった。
六十代になっているはずだ。背が低く、白髪で、地味な色のコートを着ていた。手に花を持っていた。今日も来たのだ。
蒼は反射的に、路地の角に身を隠した。
見ることができなかった。顔を見ることが、できなかった。
柱の陰から、母親の背中だけ見えた。花を供え、しゃがみ込み、何かを呟いている。手を合わせている。
どれくらいそうしていただろうか。
母親は立ち上がり、来た方向へ戻っていった。
蒼は路地から出た。踏切の前には、新しい花が加わっていた。今日、母親が持ってきた花。白い菊と、また向日葵が一本。
向日葵は、タクヤが好きだったのだろうか。
蒼には知る方法がなかった。
家に帰り、夕食を作り、食べ、風呂に入り、布団に入った。
電気を消す前に、ベッドサイドのノートを開いた。御堂に言われた通り、夢の記録をつけるためのノートだ。今日のページに、昨夜の夢のことを書いた。
ライ麦畑。ジョン。チャップマン。キャッチャー。
書いているうちに、あの夢の感触が戻ってきた。土の匂い。揺れる麦。男の静かな目。
ペンを置いた。
電気を消した。
目を閉じた。
また麦畑に行けるだろうか、と思いながら、蒼は眠った。
第六章 再び麦畑
行けた。
同じ場所だった。薄紫の空、広大な麦畑、ゆらゆらと揺れる穂。しかし今回は、前回と少し様子が違った。遠くの方に、光の柱のようなものが見えた。細く、静かに、空に向かって伸びていた。
蒼は歩いた。光の柱の方向へ。
しばらく歩くと、ジョンが立っていた。前回と同じ格好で、同じ場所に立っているかのように、自然にそこにいた。
「また来たね」とジョンは言った。
「来れた」と蒼は言った。「夢の中だとわかってる。でも、来たかった」
「夢ではないかもしれない」
「どういう意味だ?」
「お前の意識の一部が、ここに来ている。夢というのは、意識が解放されたときに起きることだ。お前の意識は、覚醒中もここへの扉を持っている。それが今、開きかけている」
蒼はジョンの横に立った。光の柱を見た。
「あれは何だ?」
「誰かが落ちている」とジョンは言った。「あの光の柱は、落下中の意識体だ。キャッチャーがいれば、あそこへ向かって、つかまえることができる」
「今は?」
「今は誰もいない」とジョンは言った。「私は今、お前と話しているから、行けない」
「俺が行けるか?」
「まだ早い」とジョンは言った。「キャッチャーになるには、この場所に完全に根を下ろす必要がある。お前はまだ、夢と現実の間にいる。強く引っ張れば、現実に戻ってしまう」
蒼は光の柱を見た。誰かが落ちている。今、この瞬間、誰かが——。
「チャップマンは?」と蒼は聞いた。
ジョンの表情が、わずかに曇った。
「あいつも、ここにいる。ただし、キャッチャーとは違う形で」
「どういう形で?」
「探している」とジョンは言った。「ホールデン・コールフィールドを。あの小説の主人公を」
「なぜ?」
「あいつは、その本を持って私を撃った。一九八〇年十二月八日に。あのとき、あいつの頭にはホールデンのことしかなかった。だから今も、その呪縛から抜けられない。私を撃った理由を、ホールデンに確認しに行こうとしている」
蒼は麦畑の奥を見た。どこかにチャップマンという男がいる。
「あいつは危ないのか?」
「危険ではない」とジョンは言った。「ただ、迷子だ。四十年以上、この場所で迷い続けている。私のことを追っているようで、実は自分のことを追っている。自分がなぜあんなことをしたのか、理解できないまま、ずっとここにいる」
「かわいそうな奴だ」と蒼は言った。
ジョンは少し驚いたような顔をした。
「そう思うか?」
「思う。自分が何をしたかわからないまま、四十年以上さまようなんて」
「お前は優しいな」とジョンは言った。「キャッチャーに向いているかもしれない」
そのとき、遠くから足音が聞こえた。前回と同じ、重たい足音。
「また来た」とジョンは言った。
「今度は逃げない」と蒼は言った。
「まずい。お前の意識はまだ不安定だ。チャップマンに触れたら——」
「話してみたい」
「蒼——」
ジョンが初めて蒼の名前を呼んだ。
足音が近づく。麦が揺れる。大柄な影が見えてくる。
そしてその瞬間——。
目が覚めた。
アラームが鳴っていた。朝六時だった。
第二部「オーブになった」
第一章 二重意識
If a body catch a body coming through the rye.
——J.D.サリンジャー『キャッチャー・イン・ザ・ライ』より
翌朝、蒼はノートに夢を書き記した後、所長室へ向かった。
御堂は蒼の話を聞きながら、メモを取った。書くスピードが速く、蒼の言葉が終わるより先に書き終えていた。
「チャップマンと接触しようとした、か」と御堂は言った。
「しようとしたら目が覚めました」
「よかった」
「よかった?」
「今の段階では、まずい」と御堂は言った。「渡辺くん、今日から君には検査を受けてもらう。脳波と量子場の同時計測だ」
「私が被験者になるんですか?」
「なってもらう必要がある」と御堂は言った。「昨夜の波形を見た。Ω波が二回発生している。これは極めて稀なケースだ。通常、Ω波は一人の被験者において、生涯に一度か二度しか発生しない。君は二夜連続で発生させている」
蒼は黙っていた。
「率直に言おう」と御堂は続けた。「渡辺くん、君は恐らく『二重意識』の状態にある」
「二重意識?」
「覚醒中も、意識の一部がライ麦畑に存在している状態だ。ほとんどの人間は、深い睡眠中にのみ量子場と接触する。しかし一部の人間——おそらく百万人に一人程度——は、覚醒中も量子場との回路が開いたままになる。この状態を我々は二重意識と呼んでいる」
「それは病気なのか?」
「そうは言っていない」と御堂は言った。「特殊な状態だ。キャッチャーになれる可能性を持つ人間の条件の一つでもある」
蒼は窓の外を見た。庭の木が風に揺れていた。
「ジョンという男は」と蒼は言った。「本物だと思いますか?」
御堂は少し間を置いた。
「本物という定義による」
「ライ麦畑仮説が正しいとすれば、死者の意識体が存在できる。それがジョンなら、本物だ」
「あのジョンが——」と御堂は言いかけて、止まった。「ジョンという意識体が存在することは、我々の理論上、あり得る」
蒼は御堂を見た。御堂は視線を逸らした。
「所長、あのジョンが誰か、知っていますか?」
「さあ」と御堂は言った。「さあ、わからない」
嘘だと、蒼は思った。しかしそれ以上は追わなかった。
検査室は別館Bの地下にあった。
白い部屋で、リクライニング式のベッドがあり、天井にセンサーの集合体が取り付けられていた。美沙が検査技師として立ち会った。
「怖くないですか?」と美沙は聞いた。
「別に」と蒼は言った。「何を計測するんだ?」
「脳波と量子場の同時計測ですね。お体に触れるものは何もないです。ただ、ここに横になって、目を閉じてください。できれば昨夜の夢を再現するように、麦畑のことを思い浮かべてください」
「それで眠れるか?」
「眠らなくていいです」と美沙は言った。「ただ、意識をそちらに向けるだけで大丈夫です。渡辺さんの場合、覚醒中でも量子場と接触できる可能性があるので」
蒼は横になった。目を閉じた。
麦畑を思った。
薄紫の空。揺れる穂。土の匂い。ジョンの眼鏡の奥の目。
しばらくすると、美沙が「波形が出ています」と言った。小さな声だったが、興奮しているのが伝わった。
「どんな波形だ?」
「Ω波ですね。でも今回は違う。前回より複雑なパターンで——」美沙の声が途切れた。「渡辺さん、今、何か見えますか?」
見えた。
目を閉じたまま、麦畑が見えた。夢の中とは違い、輪郭が曖昧で、水彩画のようにぼんやりとしていたが、確かに麦畑だった。
「見える」と蒼は言った。「麦畑だ」
「どのくらい鮮明ですか?」
「夢の時より薄い。でも、確かに見える」
「渡辺さん」と美沙は言った。「今、量子場のセンサーが——」
美沙の声が遠くなった。
麦畑の中に、何かが浮かんでいた。
光だった。小さな、丸い光。
それが蒼の方に近づいてきた。オーブ——そういう言葉が頭に浮かんだ。写真や動画に映り込む、正体不明の光の球。あれだ。あれが近づいてくる。
オーブは蒼の目の前で止まった。
そして——声がした。ジョンの声だった。
「今日は昼間に来れたんだね」
「ここに意識を向けたら、来れた」
「まだ夢ほど鮮明ではないだろうが、慣れれば昼間でも来れるようになる」
「あなた、今はオーブになってるのか?」
「そうだ。意識体がこの場所で存在するとき、観測者からはオーブのように見える。お前から見れば、私は今、光の球だ」
「なるほど」
「蒼、チャップマンのことを聞いたな」
「聞いた。彼は迷子なんだろう?」
「そうだ。しかし昨夜、何かが変わった。チャップマンが動き始めた。落ちていく意識体に近づこうとしている」
「なぜそれが問題なんだ?」
「チャップマンは、捕まえようとして近づいているのではない」とジョンは言った。「彼にはその概念がない。ただ、衝動的に何かに向かっていく。それがキャッチャーの行動と同じになることもあるが、逆の結果をもたらすこともある」
「逆の結果というのは?」
「落ちていく者を、止めるのではなく、加速させてしまう。悪意からではない。ただ、理解がないから」
蒼は考えた。
「それは止められるか?」
「お前が本当のキャッチャーになれれば」とジョンは言った。
その時、美沙の声が急に大きくなった。
「渡辺さん! 起きてください! 所長が来ました!」
第二章 一九八〇年十二月八日
その夜、蒼は三度目の夢を見た。
今回はいつもと違い、麦畑ではなく、都市の夜景の中に立っていた。ニューヨークだとすぐにわかった。高層ビルの灯り、クラクション、どこかから聞こえるジャズ。一九八〇年代の空気がした——蒼は生まれていない時代だったが、なぜかそれがわかった。
ジョンが隣に立っていた。今回はオーブではなく、人の形をしていた。
「ここはどこだ?」と蒼は聞いた。
「ダコタハウスの前だ」とジョンは言った。「一九八〇年十二月八日の夜だ」
蒼は辺りを見回した。大きな建物の前に、人が何人か立っていた。ファンだろうか。サインを求めている人たちがいた。
「あの夜に来たのか?」
「お前を連れてきた」とジョンは言った。「お前に見せたいものがある」
「なぜここに?」
「チャップマンを理解するために」
ジョンは建物の方向に歩き出した。蒼は続いた。建物の脇に、一人の男が立っていた。大柄で、コートを着ていた。手に本を持っていた。
チャップマンだった。
この夜の、チャップマンだった。
夢の中で会ったチャップマンではなく、生きていたころのチャップマンだ。しかしその目には、すでに何かがおかしかった。焦点が合っていない。唇が動いている。何かを呟いている。
「何と言っている?」と蒼は聞いた。
「ホールデン、ホールデン、ホールデン」とジョンは言った。「その名前を繰り返している。あいつの頭の中には、もうその名前しかない」
蒼はチャップマンの手の中の本を見た。『キャッチャー・イン・ザ・ライ』だった。表紙が擦れて、何度も読み返された痕跡があった。
「あいつは本を読みすぎた」とジョンは言った。「読みすぎて、本の世界と現実の区別がつかなくなった。ホールデンが憎む「偽物たち」の代表として、自分の中に私を位置づけた。ポップスターが「偽物」だと思い込んだ」
「それで?」
「後ろを見ろ」とジョンは言った。
蒼は振り返った。
タクシーが来た。男が一人降りた。眼鏡をかけた男だった。丸い眼鏡。ジョンが生きていたころの姿だった。女性と一緒だった。
「あれが私だ」とジョンは言った。「オノと一緒に、スタジオから帰ってきた夜だ」
蒼は黙って見ていた。
男——若い日のジョンが、建物に向かって歩く。チャップマンが動く。
「見るな」とジョンは言った。「この先を見せたいわけじゃない」
蒼は目を逸らした。
銃声。
空気が震えた。
その音は夢の中のものなのに、やけにリアルだった。蒼の胸が、何かに締め付けられた。
「あいつは」とジョンは静かに言った。「あの後、本を取り出して読み始めた。逃げようとしなかった。撃ったことへの後悔を示すそぶりもなかった。ただ、本を読んでいた」
「なぜ?」
「わからない」とジョンは言った。「四十年以上経った今でもわからない。あいつ自身もわかっていない。だから今も探している。その答えを、ホールデンに聞こうとして」
「あなたは怒っていないのか?」
ジョンは少し間を置いた。
「怒る段階は、とっくに過ぎた」と彼は言った。「今は、哀れに思っている。あいつは自分がしたことの意味を理解せずに、死んで、この場所に来た。そして四十年以上、理解しようとして、理解できずにいる。それは一種の地獄だ」
「助けてやれないのか?」
「私が?」とジョンは言った。「私が助けようとすれば——それは赦しになってしまう。私にはまだ、そこまで行けるかわからない」
蒼はジョンを見た。
「でも、あなたはここにいる。ライ麦畑にいる。落ちていく人間を助けようとしている」
「そうだ」
「それは、何かを赦したからじゃないのか?」
ジョンはしばらく黙っていた。夜風が吹いた。一九八〇年十二月八日の夜の風が。
「お前は聡いな」と彼は言った。「まあ、そういうことかもしれない。完全ではないが、私はここに居続けることを選んだ。昇って行くこともできたが、しなかった。なぜかと言えば——まだやり残したことがあると思ったから」
「何を?」
「お前みたいな奴を育てること」とジョンは言った。「キャッチャーを育てることだ」
第三章 感情フィルタリング法案
現実の世界でも、変化が起きていた。
二〇四三年の初頭、政府から一つの法案が発表された。正式名称は「精神健全化促進に関する特別措置法」。通称「感情フィルタリング法」とメディアが名付けた。
その骨子はこうだった。
国民の精神的健康を守るため、脳内に埋め込む超小型の量子センサー——「メンタルチップ」と呼ばれた——を段階的に義務化する。チップは脳内の「過度な負の感情」を検知し、神経信号を調整することで、極端なうつ状態や自殺衝動を「抑制」する。
発表された翌日、研究所内では議論が起きた。
「素晴らしい」と言ったのは、御堂だった。
「問題があります」と言ったのは、美沙だった。
蒼は二人の議論を聞きながら、何とも言えない不快感を感じていた。
「問題とは何かね」と御堂は言った。「自殺者数を年間三万人から一万人以下に減らせる可能性がある。それを否定するのか?」
「感情を機械で制御することへの倫理的問題があります」と美沙は言った。「その感情が『過度な負の感情』かどうかを、誰が決めるんですか?」
「医学的な基準がある」
「基準を作るのは人間です。政府です。それは恣意的になりえます。たとえば、政府への抗議の怒り、社会への不満、不正への憤り——それらも『過度な負の感情』として抑制される可能性があります」
「極論だ」
「極論ではありません」と美沙は言った。「歴史上、感情の制御を国家が行うと言ったとき、それが良い方向に終わったことはありません」
御堂は美沙を見た。何かを計算しているような目だった。
「加納くんの懸念は記録に残しておく」と御堂は言った。「しかし研究所としては、この法案に協力する方向で検討している。我々の技術が、人命救助に使われるなら、それは本望ではないか?」
その言葉に、蒼はどこかが引っかかった。
本望。
研究所の技術を、政府が使う。
チップが脳内に埋め込まれる。
感情が「調整」される。
蒼の夢の中でジョンが言っていた言葉が蘇った。「魂を殺すのはライフルだけじゃない」——まだジョンはその言葉を言っていなかったが、蒼にはなぜかその言葉が聞こえる気がした。
第四章 チャップマンKとの対話
四回目の夢。
今回はジョンがいなかった。
蒼は麦畑に一人立っていた。遠くに光の柱が見えた。誰かが落ちている。蒼は向かおうとしたが、足が動かなかった。まだ准備ができていないのか、と思った。
後ろから声がした。
「ホールデンか?」
英語だった。低く、かすれた声。
蒼は振り返った。
大柄な男がいた。チャップマンだった。しかし夢の中で見たチャップマンではなかった。意識体としてのチャップマンで、その輪郭は揺れていて、存在が安定していなかった。
「違う」と蒼は言った。「俺はホールデンではない」
「でも、お前はここにいる」とチャップマンは言った。「ここにいる者は、ホールデンだ」
「そんな理屈はない」
「この本に書いてある」とチャップマンは言い、手にした本を持ち上げた。『キャッチャー・イン・ザ・ライ』だった。
「チャップマン」と蒼は言った。
男は驚いた顔をした。
「俺の名を知っている?」
「知っている。あなたのことをジョンから聞いた」
チャップマンの表情が動いた。複雑な、複数の感情が入り混じった表情だった。
「ジョンから」と彼は繰り返した。「あいつと話せるのか、お前は?」
「話している」
「あいつは何と言っていた?」
「あなたのことを、迷子だと言っていた」
チャップマンは麦の穂を掴んだ。強く掴んだ。穂が折れた。
「迷子、か」と彼は言った。
「そう言っていた」
「そうかもしれない」とチャップマンは言った。「俺は——何のためにここにいるかわからない。あの日から、ずっとここにいる。あの本を読んでいると、わかる気がする。ホールデンを探して、なぜ俺があんなことをしたのか——ホールデンなら知っているかもしれないと思って」
「ホールデンは架空の人物だ」と蒼は言った。
「わかっている」とチャップマンは言った。「わかっているが——」
彼は本を見た。表紙を撫でた。
「この本の中の世界が、あのころの俺には現実より現実に見えた。あの頃の俺は、壊れていた。今ならわかる。壊れていた。でも壊れていたから、壊したんじゃない。壊れていたから、この本に逃げ込んで、この本と現実の区別がつかなくなった。そしてあんなことをした」
蒼は黙って聞いた。
「もし俺が壊れていなければ——と思う。でも、もし俺が壊れていなければ、そもそも音楽を愛さなかったかもしれない。あいつの音楽に魂を吸い込まれることも、なかったかもしれない。何もかもが、つながっていて、切り離せない」
「あなたは、今もジョンを憎んでいるか?」と蒼は聞いた。
チャップマンは首を振った。
「とっくに憎めなくなった。ここにいれば、あいつが何をしていたか見える。落ちていく者を助けようとしている。あいつは今も、あの音楽のまま生きている——いや、死んだ後も、同じ魂のまま、何かをしようとしている」
「あなたも、したいことがあるか?」と蒼は聞いた。
チャップマンは驚いた顔をした。
「俺が?」
「ここで何かできるかもしれない。キャッチャーとして、落ちていく者を助けることができるかもしれない」
「俺は人を殺した人間だ」
「ここでは関係ない」と蒼は言った。「ここは落ちていく場所の手前だ。落ちていく者に手を差し伸べるのに、資格がいるか?」
チャップマンはしばらく黙っていた。
「わからない」と彼は言った。「俺には、まだわからない」
「それでいい」と蒼は言った。「俺だって、まだわからないことだらけだ」
麦が揺れた。遠くの光の柱が、少し動いた。
蒼は目を覚ます前に、一つだけ確かめた。
「チャップマン、あなたは今、何歳に感じているか?」
男は少し考えた。
「二十五だ」と彼は言った。「あの日と同じ。二十五のままだ」
蒼はその答えを聞いて、静かな悲しみを感じた。
その悲しみを感じながら、目が覚めた。
第五章 ジョンの歌
その夜、また夢を見た。
今回はジョンが歌っていた。
麦畑の真ん中に座り、何かを口ずさんでいた。特定の曲ではなく、即興のような、メロディとも詩ともつかないものだった。
蒼が近づくと、ジョンは歌を止めた。
「チャップマンと話したんだってな」とジョンは言った。
「怒っているか?」
「なぜ怒る」とジョンは言った。「正直に言えば、驚いた。お前はあいつを怖いと思わなかったのか?」
「思った。でも怖いと思いながら、かわいそうだとも思った」
「なるほどな」とジョンは言った。「感情フィルタリング法というのを知っているか?」
「現実の世界の話か?」と蒼は聞いた。「知っている。昨日、研究所で議論になった」
「その法案は通ってはいけない」とジョンは言った。
「なぜ?」
「悲しみや怒りや孤独は、人間の一部だからだ。それを機械で消せば、人間の一部が失われる。落ちていく人間は、落ちながら生きている。落ちることを機械で止めるのではなく、落ちかけた人間の手を、別の人間がつかまなければいけない」
「しかし、それでは救えない命もある」
「救えない命は、ある」とジョンは言った。「それが辛い事実だ。しかし機械に魂を管理させることの代償は、もっと大きい」
「感情を感じなくなれば、落ちなくなる。それはある意味で救いでは?」
「魂を殺すのはライフルだけじゃない」とジョンは言った。
その言葉だった。蒼が覚醒中に予感していた言葉。
「感情をなくした人間は生きているか?」とジョンは続けた。「体は生きている。でも、魂は?」
「わからない」と蒼は言った。
「俺にもわからない」とジョンは言った。「でも、わからないまま機械に委ねるほど、人間は魂を軽く扱っていいのか——俺にはそれが疑問だ」
麦畑の向こうで、光の柱が揺れていた。また誰かが落ちていた。
「あれを助けに行きたい」と蒼は言った。
「まだ早い、と言い続けてきたが」とジョンは言った。「そろそろいいかもしれない」
「本当か?」
「ただし、一人では行くな。私がついて行く」
二人は歩き始めた。麦の中を、光の柱に向かって。
第三部「落ちて行く」
第一章 早川凛(一人称)
If a body catch a body comin' thro' the rye.
——バーンズの詩より
わたしの名前は早川凛。十七歳。高校二年生。
もう高校には行っていない。
去年の十一月から、行っていない。理由は、まあ、いろいろある。でも全部話すのは疲れるから、端的に言う。SNSで炎上した。
些細なことだった。本当に些細なことだった。クラスの子の悪口を——悪口と言えるかどうかも微妙なレベルの話を——ツイートしたら、誰かがスクリーンショットを撮って拡散した。
そこから先は、嵐だった。
学校の裏アカウントがあることがバレた。そこには愚痴が書いてあった。クラスの誰々がうざい、先生が好きじゃない、制服が嫌い、勉強が嫌い。そんな普通の高校生が普通に思うようなことが書いてあった。でも「普通」は通じなかった。「人格に問題がある」「こんな人間と同じ学校にいたくない」という言葉が、次々と飛んできた。
学校に行けなくなった。
親は最初、「気にするな」と言ったが、一週間後には「いつまで休むの」と言い始めた。
友達は——友達と思っていた子たちは——誰も連絡をくれなかった。
部屋にいると、スマートフォンの通知が怖くなった。鳴るたびに心臓が跳ねた。だから電源を切った。切ると今度は、自分が世界から切り離されたような気がした。誰とも繋がっていない。誰にも見えていない。自分が存在しているのかどうか、よくわからなくなった。
そういう日が続いた。
ある日、家を出た。どこに行くかわからないまま、電車に乗って、終点まで行った。終点は海の近くだった。海を見たかったわけじゃなかったけれど、気がついたら浜辺にいた。
一月の海は寒かった。風が強くて、砂が飛んできた。
浜辺を歩いた。誰もいなかった。
崖があった。
浜辺の端に、崖があった。高くはなかった。たぶん十メートルか十五メートルくらい。下には岩があった。
なぜかその崖の前で立ち止まった。
立ち止まって、下を見た。
怖くなかった。
それが一番びっくりした。怖くなかった。むしろ、ここから飛び込んだら楽になれるかもしれないと、冷静に思った。
おかしいと思うかもしれない。でも、そのときのわたしには、それが一番合理的な選択肢に見えた。これ以上傷つかなくていい。これ以上怖くなくていい。
崖の縁に立った。
風が吹いた。
そのとき、何かが起きた。
第二章 麦畑の端
(蒼の視点)
その夜、蒼は研究所の場観測室で残業をしていた。
午後十一時を過ぎたころ、スクリーンに異常値が出た。
アラートが鳴った。
波形は、今まで見たことのないパターンだった。Ω波ではなく、もっと激しく、もっと鋭い。落下の波形だ、と直感した。意識が急速に落ちていく、あの波形だ。
蒼は椅子から立ち上がり、部屋の端にある観測ベッドに横になった。誰かが見れば奇妙な行動だったが、残業の時間帯、部屋には蒼しかいなかった。
目を閉じた。
麦畑を思った。
薄紫の空。揺れる穂。土の匂い。
行けた。
ジョンが待っていた。
「来た」とジョンは言った。「感じたか?」
「感じた。誰かが落ちている」
「急がなければならない」
二人は走った。麦の海を、光の柱に向かって。
光の柱が近づくにつれ、ものの様子が変わってきた。麦畑の質感が変わり、空気が重くなり、どこかから声がした。
女の子の声だった。
若い、女の子の声。
声というより、意識の断片が形を持ったような——感情が言語になりかけたような——そういう状態だった。
蒼はそれを感じた。感じながら、走った。
「あそこだ」とジョンが言った。
麦畑の端に、崖があった。
夢の麦畑に崖があることは、今まで気づかなかった。でも確かにそこにあった。麦畑が終わり、そこから先は——何もない。虚空だった。深い、深い虚空。
崖の縁に、少女が立っていた。
ぼんやりとした輪郭の、まだ形が定まりきっていない意識体だった。落下の途中にいるから、完全にここには存在していない。半分は現実の世界に、半分はここにいる。
蒼は走った。
「待って!」と蒼は叫んだ。
少女の意識体が振り返った。驚いた顔をした。
「あなたは?」と少女の意識が言った。
「関係ない」と蒼は言った。「行かないで」
「なぜ?」
蒼は答えに詰まった。なぜ行かないでほしいのか。そんな理由が、見知らぬ他人に言えるのか。
「俺が」と蒼は言った。「お前を引き留めたい。それだけだ」
「わたしのことを知らないのに?」
「知らない」と蒼は言った。「でも、あなたが落ちていくのを、俺は感じた。だから来た」
少女の意識体が揺れた。
「わたし、もう疲れた」
「わかる」と蒼は言った。「俺も疲れていた時期がある」
「わかるはずない。あなたはわたしじゃない」
「そうだ。でも俺には、声をかけなかった後悔がある。十年前、声をかければよかった人間がいた。かけなかった。それが今も俺の中にある」
少女の輪郭が揺れた。
「今夜、声をかける機会を貰った」と蒼は言った。「だから来た」
長い沈黙があった。
麦が揺れた。
崖の向こうの虚空が、深く、深く、広がっていた。
「名前を聞いていいか?」と蒼は言った。
「凛」と少女は言った。「早川凛」
「凛」と蒼は言った。「俺は渡辺蒼だ。よろしく」
凛の意識体が、わずかに笑った気がした。
「こんな場所でよろしくって、変な人ね」
「変な状況だからな」
凛の輪郭が、少し安定してきた。崖の縁から、半歩、後退した。
ジョンが蒼の隣に来た。誰かが崖から離れていくのを感じたか、遠くの光の柱が薄くなっていくのが見えた。
「よかった」とジョンが言った。
「でも、現実の世界ではまだ崖の前にいる」と蒼は言った。
「そうだ。急いでここを離れさせる必要がある」
蒼は凛の意識体を見た。
「凛、今、どこにいる?」
「海の近くの崖の前」
「一人か?」
「一人」
「今すぐ、その場所から離れてほしい。どこでもいい。ただ、崖から離れてほしい」
「なぜあなたに言われなきゃいけないの?」
「理由はない」と蒼は言った。「でも、俺はここで、あなたに会えてよかったと思っている。だからもう少し、会い続けたい」
沈黙。
「……電話していい?」と凛は言った。「110じゃなくて、誰か人に」
「していい。誰でもいい。とにかく崖から離れてほしい」
凛の意識体が、さらに半歩後退した。
「わかった」と彼女は言った。「でも、また会える?」
「また来る」と蒼は言った。「必ず来る」
凛の輪郭が薄くなっていった。現実の世界に戻っていく。
光の柱が消えた。
蒼は崖の前に立ち尽くした。
虚空が残っていた。深く、暗い虚空。蒼は覗き込んで、そこに何があるか見ようとした。何も見えなかった。ただの暗さがあった。
「見なくていい」とジョンが言った。「そこは、見る場所ではない」
蒼は顔を上げた。
「うまくいったか?」
「今夜は、うまくいった」とジョンは言った。「でも、現実の世界では続きがある。あの子が本当に安全になるには、現実の手が必要だ」
第三章 凛のその後(一人称)
わたしは崖の前から走った。
なぜかはわからない。走りたかった。足が動いた。
浜辺を走って、浜辺の外れのコンビニに入った。コンビニの明かりがやけに眩しかった。店員のお兄さんが「いらっしゃいませ」と言った。普通の声だった。その普通の声を聞いた瞬間、涙が出た。
スマートフォンを取り出した。電源を入れた。
お母さんに電話した。
「どこにいるの!」とお母さんはすぐ言った。「もう夜の十一時よ!」
「ごめん」とわたしは言った。「海の近くにいる。迎えに来てほしい」
「なぜそんなところに——」
「お母さん」とわたしは言った。「迎えに来てほしい。それだけ。怒らないで」
少し間があって、お母さんは「わかった」と言った。「場所を送って」
コンビニのトイレで顔を洗った。鏡の中の自分が、思ったより普通の顔をしていた。別に泣き腫らしているわけでもなく、ただ疲れた顔をした十七歳がいた。
あの不思議な感覚は何だったのだろう。
崖の前に立ったとき、誰かの声がした。目の前には誰もいなかったのに、声がした。声というより、感覚。誰かがそこにいて、「来るな」と言っていた。
渡辺蒼、と名乗った声。
変な人、とわたしは思った。でもその変な人のことが、少し気になった。
また会える? と聞いたら、また来る、と言った。
夢の中の話だとわかっていた。でも、その約束を信じたかった。
続く…


