今年還暦60歳となり、


年金的には、70歳までのどこかで、

仕事を引退し、年金生活を送ることができる資格を得た。


やり切った感のある嬉しいことでもあり、それは寂しいことでもある。


とりあえず依頼が有り続ける限り、というかミスなどで限界を感じるまで続けていくくもりなのだけど。



最近は、買い物中などで、ウロウロしてる邪魔くさい親父がいると、「このくそジジイ」って思い相手を見ると、

大抵が自分の方が歳上だったりする。


そうか、もう中年でさえない年齢なんだと、ふと思う。



まだまだ三十代四十代のつもりでいたけど、実際周りはそう扱ってくれない。


仕事でも私事でも、高校や大学の同窓会などでも、大御所とまでは行かないけど、ご意見番みたいな感じで、なんとも居心地が悪い。



世の中的にはそんな立ち位置にいる今、

過去を思い起こしてみると、自分の歩んできた道って、

33歳までは、まっすぐ平な道を全速力で走ってる感じで、

34歳以降は曲がりくねった山道で、それも踏み外すと崖の底に転落していくような険しい道だったなと思う。


33歳での分岐点は言うまでもなく、妻との死別。


そこからの人生は、会社勤めの仕事と子育ての両輪を保つために、

無理を重ねた挙句、妻の死に直面したPTSDとパニック障害の発症。


そして会社をドクターストップで辞めた。

半年と少しの療養期間を儲け、

子育て優先にするために、自分の自由に活動できる事務所を設立し、開業。


子育て優先にしたために、開業から5年ほど大きな儲けを得られるはずもなかったけど、

ただそれまでに築いてきた人間関係によって、食い繋ぐことが出来る程度にはなっていた。


会社勤めと違い、自分で時間をコントロールできるようになった。

ひとり親でお世話になってきた、地域への貢献、学校でのPTA活動、恩を返していくような生活になっていった。



そして娘達は成長し、2人とも大学進学を希望。

教師を目指すことを決意する。

進路希望は東京の大学とのことで、学費やアパート代生活費を計算すると、4年間で一人当たり1500万は準備しなければならない。


そこからは猛烈に仕事に打ち込み、学費を稼いでいった。

長女の進学から次女の卒業までの7年間は、仕事に没頭し、仕送りを続けていった。



そして今

長女は高校の同級生と結婚したものの、高校で英語を教えている。

次女はサッカーのサポーター活動がを忙しくしてるが、小学校の教師をしている。

みんなが目標を達成できた。


自分も妻から受け継いだ責任を半分以上達成することができ、肩の荷が片方だけ降りた感じだ。



そんな現在は、仕事は無理無い程度でこなしながら、車椅子で認知症の母との介護生活を送っている。


母は、自分の息子がひとり親で厳しい生活を送る中、出来るだけ手伝ってくれた。

私も母には感謝でいっぱいだ。

今はその恩を返している感じ。



母は私や孫のために、たくさんの時間を費やしてくれた。

それは我が家族を次に繋いでいくための義務のようなつまりだったかもしれない。


私も娘達へバトンを渡すために、必死に育ててきた。


人は何のために生きるのかと問われると、

私は必ず、次につなぐためと答える。

もちろんそれは子供を持つことに限らず、

仕事でも何でも、後を受け継ぐ人たちにつなぐことでもある。


それ以上でもなく、それ以下でもない。


ただその中の時間をどれだけ楽しむことが出来るかで、人生は決まるんだと思う。





還暦旅行で行った伊勢神宮内宮の五十鈴川。


悠久の流れの中、いろんな人たちがここ伊勢を訪ね、繋いできたと思うと、

感慨深くなる。