の試写会でほぼ全編を鑑賞
からの法談
想いを伝えたいが伝わらん
完全に空回り
洋画だと
『この、ニュートラル野郎』と
罵られただろうな
傲慢というか
自分の想いを押し付けてるんだろうな
環境に恵まれ過ぎた故に
傲慢な性格が
要所要所で
出てるんだな
自分の反省する課題があまりにも
多過ぎて
今さら
懺悔もないと
開き直りたくなるわ



責任感もあり
正義感もある
九州男児の先輩に
真理をねじ込んだ
自分なりの全力の対機説法
自分も何も実践もしてなく
とても人のことを言えたものではないのだが
止まらない
約3時間
信仰心の大切さ
愛国心
左翼唯物思想の危険性を
1から説明し
かなり手応えを感じた
最後は
照れ臭そうに
遠回しに
感謝の言葉をくれて
純粋に嬉しかった
自分の事もままならず
常に己心の魔との闘いを感じるが
人の心を救いたいという思いは
間違いなくあった事に気づき
それは大きな発見だった










自分を卑下する
明確な理由はないけれど
何をするにも
全く自信が持てない
最下級戦士的な
イメージがつきまとう
その由縁は
実家の仕事の影響と
幼少期の
発展思考を蔑む
母親の先導が
潜在的に引きずっていた
やはりここがターニングポイントだった
けれど
どうしても反省はできない
もちろん自分に悪い部分も大いにあるが
小学生時代の仏性
高校出たばかりのハナタレの心を
抑圧し続けた罪は重いな
あちら側に反省を促し
省みたというその行為一つで
私達も悪かったの一言で
自分もバシッと断ち切ろうと努力するが
それは絶対にあり得ない
自責の念なんざ感じてるはずもなく
むしろ
恥さらし
育て方を間違えた
ぐらいしか思ってないだろ
まぁあちら側も
時代の被害者
骨抜きにされ
愚民にされた
憐れな唯物論者だろ
もう財産さえ残してくれればいいよ
ソウルメイトの愛する甥っ子を
関節的に生んでくれた
それは感謝しきれないぐらい
有り難く思う
甥っ子を
守るのは自分の使命の一つ
絶対に腐らせないし
大義を持って
立派な大人になってもらいたい
老害になるぐらいならば
さっさと今世はすてろ
















両親に対して
反省、感謝の瞑想をするつもりが
いつの間にか
思い出さなくてもいい事までをも思い出し
断ち切ったと思っていた負の思いが
突然
ぶり返した
これは本末転倒
どころか全く予想してなかった
今思えば
完全に入られた感覚で
感謝どころではなく
あの時ボコボコに
ブン殴っとけばよかった的な
まさに阿修羅地獄のイメージがよぎる
次の日の朝
左肩が重く
なるほどねと気付いた
結局
臭いモノに蓋をする的な
断ち切ったと思っていた念いを
見ないようにしていただけで
何も解決はしてなかったんだなと
光明思想で押し流しても
その場しのぎに過ぎず
心から反省をしなければまた
ぶり返す事に気付いた
というか
反省ってキツすぎるな
光明思想は本質を直視せず
気休め的な思想かもしれないな
結局あまり考えずに
明るい所だけを観るんじゃ
現実逃避と変わらない
やはり神道だけじゃ足りないのだな






自分の心以外に
興味がない
と言うと
語弊があるかもしれないが
詰まる所もうそこしかない
利自即利他も
利自が先にきている訳で
自分を利してからではないと
他人なんか感化できるわけがない
行為で言えば
自発的に
魂が潤う、喜ぶ事だけをしてれば
道は外れないと思うし
自然に
人にも親切になれる筈
ちょっとでも人に良い事をすると
心が温かくなるのは
魂が喜んでいるまさにそのもの
その正しい行為を見極めるのが八正道の筈
しかし
幼少期から生活の一部レベルに真理を
学んでいれば正見一つとっても
こんな苦労はしないな〜
とつくづく感じる
人から見れば
唯物的に言えば
恵まれて育った方だと思うけれど
唯物論、無神論の家庭では
心も無くす
今では親の体の心配とかはするけれど
感謝の念はほとんどなかったのに
気付いた
いい歳こいてヤバイな
そこを反省し納得するまで
何日でも何カ月でも
すぐにでも反省の瞑想を
始めないとな
















あれこれ本を読むのを一旦止めて
仏教論を重点的に学ばなければ
というフワリとインスピレーションが下りた
というのも
次こそは次こそは!
という思いで
新しい書籍を読み続け
知識を増やし続けても
で?って感じで
何も変わらない
表面意識
まるで
青い鳥を探しまわるように書籍を
読み続けていても
全く意味がない
というか
自分のキャパを超えていて
まだその段階では無かったような気もする
それは家(心の中)にいるのはわかっていても
それが見つからない故に
他人や書籍に頼っていたんだろ
他力本願になって
バカだな
気付くのが遅すぎる








200束を
都内の新築マンションへ搬入
そこで絡むのが
荷揚げ屋さんと呼ばれる豪傑達
一束15〜20キロあるフローリングを
数束背負って各部屋に配る
凄いのは
一切ペースが落ちず
枚数も減らさず
配りきる
それも1日中
次から次へと来るトラックから
色々な建材を
黙々と降ろしている
ただ担いで運ぶという単純作業で
よく職人が小バカにした感じで
顎でつかっているのを
たまに見かけるが
億ション
と呼ばれる建物を造る
職人や設計士よりも
この漢達を
尊敬してやまない
実際に話を聞くと
半日で逃げちゃう人が多いらしい
多分日本で最も過酷な職業の一つ
それを目のあたりにして
いつも思うのは
これを何年もやってたり
現場で頭を張ってる人は
侍の生まれ変わりなのでは?
と本気で思ってしまう
それもやはり
上士とかではない
志士の生まれ変わり
魂が強くなければ
常人じゃ絶対できない職種だと思う
こういう感化された時の気持ちと
それを目指す気持ちは
絶対に忘れないようにしてかないと
発展はないな




先日従姉妹が末期ガンで亡くなり
なんと坊主を呼ばずに
音楽だけを流す
音楽葬なるものをやるみたいなのだが
果たしてやる意味あるのかね?
選曲は姉が担当で
一生懸命ユーチューブで探していたが
せめて賛美歌ぐらい入れろよ
と言いたかった
母親は母親で『お坊さんはどうせ宗教だしね』と
ハァ?
呆れてモノが言えないとはこの事
母親の宗教の認識は
昔は遊びや娯楽が少なかったから
神社仏閣が栄えてたと
ハァ?
どうせネットか何かで観た
ゴミみたいな情報を
此れからも
金言のように言い続けるんだろう
左翼は左翼で
能動的な左翼ならまだ
賢く理性的
という
捉え方もできるが
受動的な左翼のくせに
自分も賢くなった気でいる
救いようのない思考回路
宗教に頼らず生きている
という誇りさえたまに口に出す
憐れ
を通り越し
有害
愛する甥っ子、姪っ子にとって
甥っ子は完全にソウルメイト
不思議な出来事が多すぎる
親父は心のどこかで真理を欲しているのは
間違いなく感じる
それを邪魔しているのが母親
親父には死ぬまでに
せめて
教会ぐらいには
辿り着いてもらいたいというのが
切実な願い






昔ブックオフで買った古事記の本に
氏名の意味で
使命と表記してあったが
これもGHQに変えられたのかな?
法友が
名前は親がインスピレーションを受けて
付ける場合が多いと言ってたが
自分の使命なんか
考えた事もなかったな
自分の器に合わない
大それた事を考えるのも
只のオメデタイ野郎だが
思考あっての行動
なるべくそこは
縮こまらず
背伸びすべきかもしれない

















に比べれば
全ての会話が
くだらなく
低俗に感じてしまう
心の奥底から感じれる
喜び
魂の躍動
爽快感
からの気付きや発見
その時の恍惚感は
何よりにも変え難い幸福感を実感できる
これはわりと不思議で
しよう!と思っでできるものでもなく
お互いの波長が合わないと
弾き、弾かれてしまい
その時の反動も半端ないぐらいの不快感がある
例えるならば
愛するモノをバカにされたような感覚
やはり魂の仏性にはとうてい抗えない
これはある意味
というより
神秘体験の一種かも
そこら辺のおじちゃんおばちゃんでもいい
ずっと法談をしていたい