三島由紀夫の見た青空 消えた秋祭り
消えた秋祭り。消えた青空
今年の11月は、暖かく、天気も安定していて、建設業界に身を置く私としては有難かった。
現場管理であちこち走り回っている身。11月の透き通った青空、赤く黄色く染まった山々・・・
移動中の車から見える景色のあまりの美しさに、小恍惚感といえば少し大袈裟だが、他になんといえばいいのか、懐かしさも混じってうっとりすることもしばしば。
世間の新型コロナの喧騒、不安と、この美しい風景は、どうしても調和しない。
松下幸之助翁も、渡部昇一翁も、あっちの世界から同じ事を仰った事を思い出す。
「こっちの世界には、コロナウイルスなんて、存在しないんだよ」
ああ、コロナウイルスの存在しない桃源郷・・・いいなあ。
この美しい日本の秋の風景から、今年は「消えた」ものがあった。
それは秋祭り。
お祭りが消えたのだ。
神輿を担ぎワッショイワッショイは、「密」の極致なのだ。
ワッショイ!ワッショイ!の大声で、唾液が多量に飛散しているというわけだ。
そういえば、どこかで日本人はお祭りで集団免疫を獲得してきたのだとかいう論考を読んだ記憶がある。
五穀豊穣、神への感謝さえ憚れる秋
ところで、
今年は三島由紀夫没後50周年。
テレビでは、特集がしばしば組まれいてる。
先日の番組は、三島由紀夫の知られざるエピソードが紹介されていた。
三島由紀夫が、念願の祭りの神輿を担いだ時のエピソードだ。初体験。
彼は、お祭りの熱狂の主役となった。彼はそれまでその熱狂には常に精神的に部外者であったようだ。
彼は言う。
~私はかねてより、神輿を担ぐ者たちが何を見ているのか興味があった。
担いだ私はこの謎を容易に解いた。
彼らは青空をみているのだった。~
秋祭りの熱狂の渦中で、彼らが見ていたものは、青空だった。と三島由紀夫は書いた。
そういわれて見れば、私も何回か近所の神社の秋の例大祭で神輿を担いだ。大きな神輿で、苦しい、横にも、下にも首が回らない。顎が上がる。必然と青空を見る事になる。なるほど、私も秋の青空を見ていた。笑。
密で唾液の飛散の中であったろうが、何百年、神に感謝を捧げてきた。
それが今年途絶えた。
我々は青空を見る機会を失った。
青空を見る代わりに、多くの人は、緑のおばさんから脅かされ、家に閉じ込められた。
テレビから流れてくるフェイク・ニュースの洪水に晒された。
もう、うんざりだ。
青空を見よう。
世間のフェイク。ニュース、コロナウイルスとは、どうしても調和しない美がそこにはある。
そして12月8日は、特に、青空を見よう。笑。