こうした人々と共に生き、共に死にたい・・・。 | 加納有輝彦のブログ
2019-03-11

こうした人々と共に生き、共に死にたい・・・。

テーマ:ブログ

 前の日記で故福岡正信氏の日本人に対する厳しい言葉「日本人は複雑でずる賢く、日和見で臆病で、何も出来ないままうやむやのうちに一生を終わることも多いでしょう」という言葉を紹介した。

 

 すると、「意味ある偶然」なのでしょう、一昨日だったか深夜のBSNHKで日本を深く愛し先月お亡くなりになったドナルド・キーンさんのアーカイブス・インタビュー映像が放送されたのを何気に観ることとなった。

 

「ドナルド・キーンさんを偲んで 100年インタビュー▽愛する日本人とともに生きたい」

 

 収録されたのは、東日本大震災発災後、日本に帰化し、永住するために来日された直後のもののようだった。場所は銀閣寺。聞き手は渡邊あゆみアナウンサー。2012年4月に放送された再放送であった。

 日本に永住を決意した時の心境を、高見順の「敗戦日記」を引用しながら語るシーンには、とりわけ心を打たれるものがあった。

東日本大震災発災直後の光景に接したドナルド・キーン氏。
「被災直後に家を失い、家族を亡くした被災者たちが、泣き叫ぶでもなく、静かに辛抱強く、支え合って生きている姿は、私に第二次世界大戦前後の人気作家、高見順の言葉を思い出させた。

 高見は東京大空襲直後の上野駅で、全てを失った戦災者が、それでも秩序正しく、健気に疎開列車を待っている様子に『私の眼にいつしか涙が湧いていた。愛しさ、愛情で胸がいっぱいだった。こうした人々と共に生き、共に死にたいと思った。』と日記に残した。私も同じ気持ちになっていた。」キーン氏も六十数年前の高見と同じ気持ちになっていたという。

 

 

 ふと思った。

日本において信仰者は、傷付けられる立場に置かれる蓋然性が高い。
何せ、宗教、信仰に関して肯定的に報道することは、戦後日本の最大のタブーの一つであって、宗教に関わる不祥事等の事件が起きた時のみ報道されるのだから。しかも、その報道姿勢は、大した裏取りもせず、場末の酒場で語られるような与太話がそのまま面白可笑しく、あるこなないこと時にないことないこと恣意的に脚色されて報道されるのだからたまったものではない。

 

私も過去一度体験した。

 基本、信仰が揺らぐことはなかったが、不愉快な思いはした。憤りを感じた。

 

 そうした時、信仰対象への強い信仰心で乗り切る事が当然第一義なのですが、もう一つ、同じ信仰を持つ仲間の存在も大きかったと思います。

 

 しばしば宗教法人が布教活動に関わる部分に関して、非課税であることが強調され、金儲け云々の批判がなされる。しかし、一人一人の信仰者が非課税の特別扱いを受ける事は一切ない。彼ら(私も含め)は、日本国民として勤勉に働き納税の義務を真面目に果たし、その上で(税引き所得の中から)尊い布施行という徳を積んでいる。

 時に、宗教団体の布教活動にも課税せよという意見がある。それは信者のお布施にも課税せよと言っているに等しい。これは二重課税の極みであろう。血も涙もない酷税である。

 

 信者一般が皆、経済的に豊かな人々であるとは限らない。貧者の一灯とまではいわないが、家計のやりくりの中から世のため人のため尊い布施を行っている。

 幸福の科学は、自団体主義を最も嫌う、世のため、人のため、公益性、奉仕の精神を最も重視している。

 

私は断言できる。幸福の科学の信者さんたち、賛同者の方々は、日本において最も善良で、真面目で、勤勉で、良心的で、思いやりに優しさに、善意に溢れている人間集団の一つであると。

 

 とりわけ私は厳しい政治活動の中で真摯なご支援を頂き、それを痛感している。

 

このような文脈から、高見順氏、ドナルド・キーン氏が日本人に対して抱いた感慨を、私なりに実感をもって共有できるのであります。

 

こうした人々と共に生き、共に死にたい・・・。

 

 

P.S.

 信者といえども、一般大衆であり庶民である。

大衆の心の襞さえ分からぬ者が、大衆の心を傷つけ平気でいられる者が、どうして芸術家であり得よう。

高見順氏が大衆に抱いた優しさの一滴でさえ、件の放蕩息子は理解できていないのであろう。

 

 

 

 

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