半年が終わった | ぱね便り(旧:V町便り)

ぱね便り(旧:V町便り)

スウェーデン暮らし12年目。おかしいな、いつの間にそんな時間が経ったのだ?と、毎年同じことを考えています。

この半年間にあったことを、やっと皆さまに報告することができるようになりました。

話は去年の8月末に遡る。

日本が酷暑に見舞われた去年の夏。ぱねは、酷暑がある程度おさまってから、妹に両親の様子を見に福島に帰ってもらおうと思っていた。特にハハの様子が心配だったからである。

ところが8月末に、その妹から不吉なメッセージが届いた。右胸にしこりがあるので、念のため検査に行こうと思う、と。「多分、なんともないと思うけど、万が一悪性だったりしたら、福島に帰るどころじゃなくなるかもしれないので・・念のため伝えておくね」と。

それを読んで、背筋が寒くなったぱね。今、妹に何かがあったりしたら、私はどーすればいいんだ?と頭の中が不安でパニックになる・・

・・そして結果から言えば、そのしこりは悪性であった。つまり乳がん。それも、「トリプルネガティブ」という、攻撃的で予後の悪いタイプのやつだと。

「トリプルネガティブ」というそのタイプの乳がんのことは知っていた。J兄の同僚であるマッデが罹患した乳がんがそのタイプだったからだ。なんてことだ・・・

実は、妹ががんになったのはこれで2度目である。彼女は1997年、まだ29歳の時に、大腸がん(S状結腸)をやっている。大腸がんをやるにはあまりに若すぎ、お医者さんからは「遺伝性かもしれない」と言われていた。すでに進行してから見つかったがんだったけど、幸いにも手術は成功し、さらに、転移もない状態であったことが確認され、妹はその後、5年間の(予防抗がん剤治療も含め)経過期間を経て無事「無罪放免」になったのだ。

あれから26年も過ぎたというのに・・今度は乳がん?それもトリプルネガティブ?トリプルネガティブは遺伝性の可能性もあるので、妹は遺伝子検査も受けることになった。

乳がんの告知を受けたのが9月上旬。腫瘍の大きさは約3cm、ステージはIIa。すぐに全身CTを撮り、身体の他の部分に転移が起きていないかどうかを検査することになった。他臓器への転移が確認された場合には、手術ができなくなるので、ステージは一気にIVに上がり、あとは「緩和療法」を考えるしかなくなる、と・・。

目の前が真っ暗になるぱね。26年前にも、妹のあの腹痛の原因が大腸がんで、おまけに進行している、と聞いた時には、目の前が真っ暗になった。まさか、あの時と同じ気持ちをまた味わうことになるとは・・でもこれ、私だけじゃない。妹夫(26年前にはまだ婚約者であった)もそうだ。彼も、またあんな思いをしなければならないのか・・・そしてあの時にはいなかった、妹の子供たち2人も。

全身/他臓器への転移を調べるために、妹が全身CT検査を受けたのは9月14日。結果は1週間後の9月21日にわかるとのことだった。妹にとっても家族全員にとっても、生きた心地がしない1週間が始まったのだが・・

・・・なんと、それと同時に、妹宅にはコロナがやってきたのである。最初に発熱したのが甥っ子1号、次が妹夫。そして数日後には、ついに妹も発熱(泣)。

なんでこんなタイミングでー!!という思いと、「しかしCT撮った後でよかった」という思いと、「それと、免疫力が低下する抗がん剤治療の始まる前でよかった」という思いが頭の中でぐっちゃぐちゃに混じり合う。私にできることなど何ひとつないのだが、はっきりしていることはひとつだけあった。

福島の両親のことは、私が全部引き受けるしかない、ということ。

妹から、父のケアマネEさん(当時はまだ母にはケアマネさんがついていなかった)に連絡してもらい、がん罹患を説明し「この先しばらくは姉が連絡窓口になります」と伝えてもらった。そして、私からもEさんにメッセージを送り、「今後は海外からの連絡になるので、何か無料で連絡が取れる形を取りたいのですが・・」と伝えたら、Eさんは即座にプライベートのLINEを教えてくれたのだ(号泣)。そしてぱねは、本当は帰る予定のなかった秋にも福島に帰ることを決める。同時に、母のケアマネさんを決めて、受ける介護サービスを検討できるよう、チチケアマネEさんの協力を得ることも決意。

結局、妹宅のコロナ騒動は1週間以上続いた。なぜか、最後まで全く何事もなく普通に学校に通っていたのが甥っ子2号。きっと彼は、ウワサの「無症状感染」だったんだろうなあ・・。

妹は元々、身体が全く丈夫ではない。甥っ子1号と妹夫は数日で回復したが、妹は回復にたっぷり1週間かかった。そもそも免疫力が恐ろしく弱い人なのである・・

・・・というわけで、さっぱり熱が下がらないため、妹は9月21日に全身CT検査の結果を聞きに病院に行くことができなかった。前日の9月20日に「コロナになっちゃって、熱が下がりません。検査結果聞きに行けません」と病院に電話しておいたら、翌日、主治医から電話がかかってきた。

CT検査の結果は、全身/他臓器への転移なしだった。よかったー!!!(泣)遺伝子検査の結果は陰性だったとのこと。治療方針は、妹がコロナから回復し次第、決められることになった。

まずは、手術前に抗がん剤治療をし、腫瘍を小さくする。週に1度、病院で2種類の抗がん剤とキイトルーダという免疫チェックポイント阻害薬を投与。それを12週間。そのあとは3週間に一度、別の2種類の抗がん剤とキイトルーダの投与を4回。合計で24週間、つまり約半年の間、抗がん剤治療を続けるという。そしてそのあと手術。おそらく手術は、来年の4月~5月頃になる、と。

妹からその治療方針をメッセージで知らされたのは、10月上旬のことだった。それを読んだ時、私はまず「キイトルーダ」というその薬の名前に引っかかった。この名前・・・どこかで見たことがある。それも最近。

・・・あ、「あの薬」だったんじゃないか?と思い出して、新聞記事をもう1回読んでみたら・・

「あの薬」については、この日記に書いてます。

 

 

そう、それはまさに「その薬」だった。この日記の中に書いていた「投与には1回につき約100万円かかる」というあの薬。スウェーデンの公的医療では、このリンダさんには適用されなかったあの薬。

そんな高価な薬が、日本では保険適用なのか?と思って妹に聞いてみたら、なんと、

1年くらい前から、トリプルネガティブ乳がんには保険適用でキイトルーダが使える

ようになっていたのだという!!

なんか、信じられないような幸運・・・・・(泣)コロナ感染のタイミングといい、この薬のことといい、なんか、神様が守ってくれてるような気がするよ(泣)。

そして、10月中旬。同じトリプルネガティブ乳がんを患っていたマッデが亡くなったその翌週に、妹の抗がん剤治療が始まった・・。

 

 


ぱねの心の中は、もう大暴風。でも、妹が闘病している間、とにかくぱねは福島のことに全力で取り組むしかない・・・というわけで、チチケアマネEさんのサポートを得ながら、遠隔での「ハハにケアマネさんをつける」大作戦がスタートしたのである。

 

 

11月下旬に福島に帰ったぱねが、さらなる大奮闘をしたことはすでに日記に書いていますが、福島で実際に両親の様子を目にしたぱねは、「妹のがんのことは言わないでおこう」と最終的に決意。そもそもハハはすぐに忘れてしまうけど(ハハは、妹のあの大腸がんのことすらもう覚えていないのだ)、チチはそうはいかない。ただでさえ、ハハの認知症のことでショックを受けているチチに、これ以上の負荷はかけられないよ(泣)。

というわけで、妹は抗がん剤が終わり、手術が終わり、外見がある程度は元に戻るまでは(現在の妹は完全に毛なしである)、福島とは顔電話もしないことになる・・が、両親とはぱねが毎日「顔を見て話をしている」し、ぱねが甥っ子たちのことや妹のこと(差し障りないこと)を話しているから、両親は特にヘンだとは感じていない・・のだと思われる。

年が明け、1月中旬。妹は抗がん剤治療の後半戦に突入した。「3週間に一度」を4回繰り返すわけだが、ここまで比較的順調に行っていた治療が、最後の2回で困難にぶち当たる。理由は、原因不明の発熱。3回目の投与が終わり、あと1回でおしまいだ!というところに来て、熱がなかなか下がらない、という事態になったのだ。結局、最後4回目の投与は予定より1週間遅れることになった。そして、4回目の投与から数日してまた発熱。その発熱はたっぷり2週間継続した。原因不明なだけに不気味そのもの・・・その時にはもう手術日は4月25日と決まっていたので、この熱のせいで手術日程に影響が出たりしませんように・・!

・・と祈る気持ちだったのだが、とにかく熱は2週間後に徐々におさまった。あとは、入院前日のPCR検査を無事にクリアできれば、「入院4月24日、手術4月25日」というスケジュールを無事にこなせる!というところまでこぎつける。

・・・で、ちょうどそのタイミングで、福島ではすったもんだが発生。それについてはこちらに書きました。

 

 


ぱねの神経、休まるヒマなし(泣)。心労で本当にハゲるんだったら、ぱねはつるっぱげになってたと思うよ。

そして今週。

月曜日には、ぱねのマンモグラフィー検査があった。マンモは1年半前に一度引っかかり、その結果、嚢胞ができてますね、という診断だったのだが、「その後」のフォロー検査である。その嚢胞ができている左胸には最近、しこりのようなものが触れていて、なんだか気になってはいたので、ちょうどいいタイミング。

で、マンモグラフィーの時に、看護師さんに、去年の9月に妹にトリプルネガティブ乳がんが見つかったことを話しておく。さらに、左胸にしこりのようなものがあること、そして、5月下旬から6月半ばくらいまでスウェーデンを離れなければならない(日本に帰らなければならない)事情があることも伝えておく。

マンモグラフィーは、乳房をぎゅう~とつぶす(圧迫する)ので、それなりに痛い検査ではあるのだが、この月曜日、左胸をぎゅーとされた時の痛みは、これまでにないほどのものだった(涙)。右はそれほどでもなかったのだが・・

・・で、その夜、寝るときに左胸を触ってみたら、痛い!まるで腫れてるみたいに痛いのだ。胸が全体的に熱を含んでる感じで、右胸に比べて明らかに熱い(泣)。おまけにしこりが広がって、固くなってるような感じさえする。なんだこれ?

というわけで、翌火曜日。どうしようかなあ・・と悩んだのだが、念のため、病院のマンモグラフィー部門にメールを書き、状態を説明しておいた。前日のマンモの結果が出るには最長で8週間かかる、と言われていたし、私が5月末から4週間弱ここにいないことを考えると、やっぱり(なんともなくとも)一応、伝えておいた方がいいだろうなと思ったのだ・・

・・・で、私の方がこの「左胸腫れる事件」に襲われていた月曜日から火曜日。それとは全く関係なく、しかし同時進行で、わが家ではJ兄も大変な目にあっていた。精神的に凄まじいショックを受けることがあり、そのせいで持病の頭痛が出て、何も食べられない・飲めない・眠れない状態になっていたのである。口に入れたものは全部吐いちゃうので、薬さえ飲めない・・・(泣)

J兄がそんなことになっていた間、私の方には火曜日の午後にさっそく病院から電話がかかってきた。私の事情と今の状況を見て、「やっぱり今のうちに追加で超音波検査しましょう」と判断してくれたのである。その超音波検査は木曜日。妹の手術と同じ日・・・時差があるから、私の検査は妹の手術が終わった後だけど。

水曜日。J兄がやっと回復基調になる。というか、やっと、薬を飲める(つまり水分をとっても吐いてしまうことがない)状況になり、頭痛が改善。

日本では、妹が(前日のPCR検査を無事クリアし)無事入院。木曜日の手術は、日本時間でお昼過ぎ頃になる予定とのこと。

一方、ぱねの左胸の腫れはだんだん引いてきていた。なんだったのだ?マンモグラフィーできつく挟まれたために内出血でも起こしてたのかな・・?

そして木曜日。ぱねはなんと朝4時半に目が覚めてしまった。日本時間は午前11時半。もうじき手術室かな?と思いながら、妹にLINEメッセージを送っておく。「麻酔から覚めて、携帯がいじれるようになったらメッセージするねー」と妹。

ぱねの追加検査は日本時間20時過ぎからだった。病院に着いても、妹からはまだ連絡なし。麻酔から覚めるのに時間かかってるのかな・・・

・・・と思いながら、ぱねは検査へ。まずはもう一度、左胸のマンモを撮り、その後、お医者さんが超音波検査をしてくれました。

「マンモグラフィーと、このエコーを見る限り、そのしこりはやっぱり典型的な嚢胞で、悪いものではないのですが・・ただ、あなたの胸はすごく『高濃度』で、『詰まって見える』の。だから、マンモでは『見えない』ところに何かがあるという可能性もあるのでね・・念のため、MRI検査をしてもらえるように手配しておきます。6月下旬にスウェーデンに戻ってきたらMRI受けてね」

とのことでした。

やれやれ。私の方はこれで片付いたな・・と思いながら携帯を見ると、「無事終わったよ。今、自力でトイレにも行った。これからごはん」という妹からのメッセージが届いていた・・

・・・・よかったー!!!(泣)

そして今朝、「リンパ節転移もなかったって」との報告。よかったーーー(泣)。妹の腫瘍は、抗がん剤治療で小さくなり、そのサイズだけ見れば部分摘出でもなんとかなったらしいのですが、妹の場合、そのがんのできた右側の腕に障害があるため(妹は生まれた時の分娩マヒにより、右腕が不自由)、部分摘出の手術後に不可欠となる放射線治療ができないと判断されたのです(右腕が上に上がらないので、放射線を患部にしっかり当てられない恐れがある)。だから全摘だったんだけど、リンパ節転移がなかったというのはとにかくいいニュース(涙)。

27年前の大腸がんの手術の時とは、比べ物にならないくらいに体への負担は少ない、と妹。「手術後から動けるし、ごはんも食べられるし」と。確かに、大腸がんの時は、そもそも消化器官がダメなわけだから、口からまともに食べられるようになるまでにはずいぶんかかったもんな・・

というわけで、妹はこの後の経過が順調に進めば1週間後くらいには退院できそう。その後は、術後の化学療法(多分キイトルーダ?)を継続することになりそうですが・・

とにかく、半年間にわたる術前抗がん剤治療を戦い抜いた妹。さまざまな副作用に苦しみながらも、本当によくがんばりました(泣)。彼女は本当に強い。ぱねなど足元に及ばないほど強い(涙)。どうか神様、彼女をこの後も守ってください。あの世行きは年齢順を守るのが宇宙の鉄則だー!!

ぱねの激動の日々はこの後も続くことが確定なので(特に福島の高齢者の関係で)、ありとあらゆる励ましのお言葉、大歓迎です。いろいろヘロヘロですが、やるしかないので、がんばります。きっと至るところにいるお仲間の皆さん(同年代にはお仲間が多いはず)!一緒に乗り切りましょう!