どうやったらモチベーションが上がるのか分からない。朦朧として、漫然として、「頑張る」などと着火を試みるも全然続かない。ましてやそうした空ぶかし気味ではじめちゃったことは、はじめた時点だけがピークポイントになって下降線をたどるものだから、外の人らとやり取りしていく時には相応に慎重さも考えに置きます。
そうなると、「外から元気をもらう」をば私なんかは真剣に考える質でして、「頑張っても元気は出ない(し、出してもいけない)」んだから「自分がなにしたら元気になるか・そしてそれは持続できる見込みがあるか」を目論みます。一過性では意味がないのです。全部を見通せてから、などという幼い見立てではないにしても、スタミナ切れを起す類いのガッツはなんせ後味が悪いんです。
私自身にも、他人様にも、本当に可笑しかったり楽しくなくっちゃ、そうでなくちゃ足りないんです。いいものが筋金入りの時はね、持続するんです。玉突きみたいに、ひとつ放った玉が、こっちの予期した以外のとこの玉を小突いて、見通しのない連結であっちでこつん、こっちでこつんって各々が勝手を起します。
昔、本当に「舞台に立つ」機会があった時に、多くがアマチュアっていうしろうと劇団に、芝居の指導をしてくれた達者さんが教えてくれたことなんですけれど、「どうせやるなら、思いっきり真剣に遊ぶ方が絶対にいい!」って言ったのです。
たしかに都度都度の可笑しさや、面白さ、仲間内のワイワイも悪くはない。けど、どうせやるなら骨の髄まで捧げて、全身全霊で打ち込んだ芝居にしてった方が、結果に至る時には段違いの喜びがあるからって。ちっさく笑うより、大きな喜びを取りにいける機会なんだから、って。
実際そうでした。おっきく取りにいくと、結果はおっきく返してくれるのでした。
目先の恩恵や、小さな楽しみに私たちは喜んで身を挺してしまうものですが、それでは「せっかくそれをする機会があったのに」を最大限に結果に享受するところへ、自分を運ばし損じるのです。
機会までは誰にでもあります。可能性も無限になります。
されど、芳醇で潤沢な結果には、滅多なことではたどりつけません。そこにありつくためには、真剣に遊ぶことです。片手間でも生半可に上手くてもだめです。投じるものは全霊です。そこには「相応な返し」が担保されてないかもしれないけれど、絶対そっちの方がいいです。
そのお芝居のときそう思いました。私はとてもへたくそでしたけどね。
わがままと、選別は似通った態度で「選り分け」を見せますが、ここは外せない真剣さを投じるに値するものを見ておきたいのです。真剣に遊ぶには、真剣に投じなくちゃ。
