(これは前世紀のエッセイですよ)

 

働き過ぎたのである。働くことそのものにストレスが私はあまりたまらない。体が動いていることは、苦しい場合があるにしても、やはり「楽」なのである。それは女の子が「ダンス」にはつらつとしたガッツや思い入れをみせるのに良く似てるが、体が動いてさえいれば、人というのはもう、十分に楽しいものなのである。

わたしは漫画が書きたくて仕方ない方である。ゆえに、それに邪魔立てしそうなものに対しては、あまり容赦をしない形で無くそうとする。
まんがを書く、というのは楽しいものに違いないが、なんの我慢もなしにスイスイ書く、なんてな「同人誌」テンションとはやや違うので、相応に思い入れて「本気で」書くには、日常生活でやってるものを、いくつか「放って」おけるようにならないと、自分の期待してるラインにまで届けない。

なにかを作りつづける人間と言うのはだいたい似てる部分があるんだけれど、この「集中しまくる」ってことに対して、一般の人との解釈は大きく異なる。
なにかに卓越していいものを生み出す人間は、やむを得ず、周りから自分を隔離せざるを得なくなる。日々の、みんなのやっていること、を真正面から全部、義務感からこなしてしまうことは、それだけ自分が生み出そうとしているものにかけられる時間を減らすことになる。これは鴻上さんの言うところの「日常生活に凝る」というもので、日々の生活のものに、体も、考え方もすっかり「慣れ」、そしてより楽にすごせるよう、「日常」以外のものを知らず知らずのうちに排除してしまうのである。
が、その「日常生活」外に、一番重要なものを確保してる人間には、もう日常生活ってものが敵になるのである。まず、その感覚が、普通の人が理解してくれない部分である。

私は自分の性格の中で、この「日常生活」ってものにたいする「義務感」が一番やっかいだと思ってる。私個人を知っている方はどこそことなく気付いていらっしゃることと思いますが、ひとつやらねばならぬ!みんなのためにやらねばならぬ!ってことに直面すると、けっこう思い入れてしまう方であります。

「みんな、やってるんだから」とか「ここでは規則なんだから」という発想になんの躊躇もなく押し付けてくる人や因習が時々ありますが、幼少の頃から私はこの「みんな、やってるんだから」というのがホントに大嫌いでした。苦手でした。それは理由になるの?と疑問が湧いてました。
「みんな、やってるんだから」は「みんな」がやってるだけ、であって、みんながやってりゃいいのでは?でもわたしがやる理由にはならない、というひねくれたアマノジャク発想も付いており、それでもまだ「我慢」してなんとかみんなのやってることにあわせられるよう頑張ってはみるのですが、ある「我慢ライン」を突破すると、もう俄然「我慢なんてしない」ようになり、一般の目には「放り投げる」ように見える行動に猛進する。

今年は正月も休まず、もりもり働いてきてて、なにが起こったか、というと、「5連チャンで漫画コンテスト落選」というキョーレツな目にあい、吐きそうに腹がたってまして、一方で「そうだよな、日常生活をキチンとしてりゃ、どうしても漫画を後回し、ってスタンスでやっちゃうはずだよな」という自分もいまして、「じゃ、休むか」という決意をして、今週は漫画だけを書くことにしました。

生活はままなりませんが、漫画を書けない、というのは精神面でおそろしく苦しい状態でありまして、ましてや具体的に「腹がたって」いるだけに、そうした正直な面の私に、私が答えなくては!という気持ちになったのです。

コンテストでの落選、というのにはすっかり慣れてはいますが、やはりキチンと怒っているのです。そして、生活の合間、なんてものにしか漫画を書けなくなってる自分にも腹がたち、作品はもちろん「生活の合間」でできあがるものであり、大きな飛躍も、派手な発想も、随分となりをひそめた、こじんまりとつまらないものになりがちです。一週間、働かない、と決めると、まず心がグンと緩くなります。ダラダラできそうで、ダラダラしてられなくなります。
自分の本気ってものは、凝視しないと見えてこないものであって、無視しつづける生活を送ってた人間には「自分の持ち味」の自覚にまで戻るまでがまず難儀なのです。

実際、コンテストの賞金なんてのよりも、日常の仕事をしてる方が断然実入りがいいので、「生きる」ってことではフツーの生活していられりゃあいいのです。
買いたいものが難なく買え、食いたいものを財布を気にしないで買える。なんて素敵。なんて素敵。ゆえに、駄目。

なんというか、どう考えても駄目なんです。どうしても「足りない」って感じる。

自分の空白をモリッと埋めるものにであったことのある人は分かると思いますが、他のなにを満足させられても、一番肝心なところをポツンとさせとくと、その人はまともにならない。他人に対しては「いい人」になれても、その人の本来の「まとも」に対しては「嘘つき」を続けなくてはならない

そこを無視できるようになると、人はちゃんとした大人になれます。
量加減の話じゃありません。
「生活半分・本音半分」はすでに「コントロール」できる範疇のものであって、その人本来の姿がグンと伸びて見えるように「楽しい」とは、やはり次元を異にするのです。そうした器用さ、はどこか、どーも、悲しくて、嫌なんです。

だから、人は「器用な人」と「天才」を見分けるじゃないですか。
どんな人だって頑張りまくれば「秀才」まではたどりつけますが、「天才」の域にある人とは「努力」でそこに達するのではなく、直感でスイ、と一歩で着地します。その「天才」とは「秀才」のガンバリズムとは違うのです。

私は作品ってものに限って言うと、理尽くめの経験則で培われてきたものからうまれるものより、直感で生み出されたイレギュラーなものの方が魅力的に見えてきます。「運動はその最初の時点でピークをむかえる」という言葉もありますが、どんな作家もその「インスピレーション」の生まれた瞬間の作品こそが、もっとも威力のある時!であって、以降、そのバリエーションの多様さで生きてゆくケースがだいたいになります。

おっと、随分話がそれましたね。
今回の一週間はエモーションってものを大事にしてみようと思っています。
コンテストに落ちた作品達が「駄目」とは思ってませんし、それでも「どうしたらいいのか」は自分なりに答えが出てて、こんなところで「じゃあ、やめる!」って怒れるほど幼くもなく、そこに潜んでる「自分なりの武器」の発掘にはもっともっと時間をねじこんでやれらねばならん、とどこかで声がするんですな。

その「エモーション」のフォルムまで見えてる以上、それをつかみ取ってやる、というのは私なりの小さな戦いなのです。「時間か、お金か、人材」、これらのどれかを具体的に費やさないと、人はなにかをしでかすことはできません。
自分に投資してない人が、なにかすることができますか?そんな人にはわたしはまだ出会ったことがありません。なにか投資を自分にしてる人は、結果の如何を問わず、なにかすることができています。

ガンバリズムでやってたことのある私ですが、今はもっと肝心なものの方を重要視してます。今回は「時間」を自分に作りました。だから、元気です。

pandaheavenの持ってるといいもん⭐︎