翌日、やはり机に向かって、なかなか進まない筆と悪戦苦闘していると。

『ある~日、森の~な~か、熊さ~んに……』ズボンの右ポケットの中で音楽が鳴り響く。俊の携帯の着メロだ。『森の熊さん』なんて、別に俊の趣味ではない。香織に携帯を貸したら、いつのまにかこの着メロになっていたのだ。

 電話はその香織からであった。こちらは、別の意味で電話番号を暗記している。

「もしもし、シュン?」こちらが「もしもし、俺だけど何の用?」と尋ねる前に威勢の良い声が電話の向こうから聞こえてきた。

「そうだけど。どうした?」

「うん、あのね、シュンにも息抜きが必要かな~と思って。どう、原稿のほうは進んでる?」

「……あのさあ、それさっきも編集担当の奴に言われたんだけど」

「あ、そうなの?ゴメン」

「いいよ、別に。ただ、段々お前もあいつのようになってくンのかなあって、さ」

「冗談言わないでよ」ふふふ、と彼女が笑うのが聞こえてきた。

「いや、マジで思ったんだ」俊もつられて笑った。

 すると、突然何かを思い出したように香織が言った。「あのねあのねっ。今日、隣の部屋に住む田中さんっていうオバサンから聞いたんだけど、なんかうちのマンションの二〇七号室に在住するたき村っていう家の小学二年生の男の子が、昨日から行方不明なんですって。警察にも捜査を頼んでいるらしくて、結構大事なのよ」

 ふうん。俊は相槌を打った。別に、たいして珍事だとは思わなかった。中一のとき、母と喧嘩して家出をし、そのまま三日四日返ってこなかったことがある。小二とは少しわけが違うが、割とよくある事だろうと思ったのだ。

 しかし、次の言葉を聞くと飛び上がった。

「直也君って子なんだって。丸い眼鏡をかけた少し性格の変わった男の子らしいわ」

 丸眼鏡をかけた直也君!?それって、昨日公園でいたあの子じゃないかっ!

 俊は昨日の公園での出来事を、簡単に香織に説明した。

 すると、彼女は少し驚いたように「マジ?」と言った。

「うん。多分その子であってると思う」

 公園から香織のマンションまで、そう遠くない。子供でも普通に来られる距離だ。何しろ、俊と香織は大学時代、毎日一緒に同じ電車で通学していたのである。

 変わっていると言ったら、変わっているかもしれない。なぜ、そう思うのか、自分でもよくわからないが。

「あ、『おじさん』か……」俊は直也にそう呼ばれたのを思い出し、ボソッと呟いた。しかし、他の子供でも俊位の年頃の人のことを「おじさん」と呼ぶわけであり、これは俊の単なる思い込みに過ぎない。しかし、本人はそれで無理やり納得してしまっていた。

「じゃあね」

「じゃね」携帯を切り、俊はコートを羽織ると前の公園に向かった。

 もしかしたら、また直也に会えるかもしれない。