社内でメンター制度を導入する会社が増えている。そのおかげで、メンターを務める社員に対して、メンタリングスキルを教える「メンタリング研修」の機会が増えている。
 最近の研修の一場面。受講者から、悲痛な(?)本音が飛び出した。

 「メンティの悩みに、共感できないんです…」
 
 うわっ、すっごいわかる! あなたのその悩み、思いっきり(それこそ)共感できます!
 …って、このブログを読んでくださっているあなたも、そう思いませんか?

 最近の世の中、「共感」流行りである。
 「共感力を高めよう!」
 「ビジネスでは共感が大切」
 「共感する力を身につけるには?」
 ぞろぞろぞろ…。

 とあるサイトによれば、共感力とは「他者の考えや意見にその通りだと感じたり、喜怒哀楽といった感情に寄り添うことができる力」と定義されている。
 しかし、ぶっちゃけ、相手の言うことを何でも「その通り」と感じることは不可能だ。
 「どうしてそんなカンタンなことで悩むのか、ちょっと理解できません」
 「部下は『こんな責任の重い仕事はムリ』と言うけど、そもそも責任負ってないのに」
 「そんなことに悩むなんて、ちょっと、心が弱すぎない?って、つい思っちゃいます」 
 ぞろぞろぞろ…。

 じゃあ、「共感」できない人は、一体どうすればいいのか? 答えは、カンタン。
 「共感」には2つの意味がある、ということを正しく理解すること。

 おそらく、多くの人たちは、「共感」=相手と同じ気持ちを感じること、と考えていないだろうか。
 これは、心理学の専門用語で「情動的共感」と呼ばれる。犬好きの友達が、愛犬を亡くして悲しんでいる。自分も犬が大好きなら、友達の悲しみは我が事のように感じ、一緒に涙してしまう。これが、情動的共感である。
 でも、子どもの頃犬に噛まれて以来、犬がキライな人にとって、友達と同じ気持ちになれ、と言われてもムリ。だって、犬、キライだし。そんなとき、つい「たかが犬が死んだくらいで、そんなに悲しむなよ」なんて口走ったら最後、友情がぶち壊れること、確実。

 そこで発揮すべきは、「認知的共感」と呼ばれるものである。シンプルに、「犬好きな相手が愛犬を亡くして悲しんでいる」という事実をそのまま認知(認識、理解)する。自分自身の犬ギライはさておき、犬好きな人だったら、そりゃあ確かに悲しいだろうなあ、と想像して、「そうなんだね。悲しいんだね」と、相手の状況に対して理解を示す。
 上述の定義にある「喜怒哀楽といった感情に“寄り添う”」というのは、そういう意味のはずだ(個人的に、こういう曖昧な日本語表現って、問題だと思う。もっとわかりやすく書いてほしい…から、このブログを書いてます(笑))。

 「情動的共感」は、相手と同じ価値観や経験を共有していないと、なかなか抱けるものではない。自分にとってはカンタンな仕事で、全然つらくないなのに、それに四苦八苦して「つらい…」と感じている若手のつらさを、同じように「つらい」と感じること(=情動的共感)は、できない。

 「メンティの悩みに、共感できないんです…」という冒頭の人は、まさにこの情動的共感ができなかったわけである。というか、そもそも感じていないのだから、情動的共感を示すことは不可能だ。
 つまり、「情動的共感」をいつでもどこでも誰にでも示せ、というのは、不可能である。不可能なことを求めるのは、危険ですらある。「あなたも私と同じ気持ちを感じなさい」という「同調圧力」につながるから(日本人は、それが得意だけれど…)。

                      ・・・(中)に続く