ひとりで

身の回りに起きたしょうも無い出来事

人生のしくみについて転生について

哲学的で深遠なこと(と自分で思っている)

について

 

ぐるぐる・もやもや

ときに高揚感をもって

考えることが好きなわたしは

 

友人・知人が

 

「本人は気づいていないけれど

そうすることが好きなこと」

 

を類推することも好きです

邪推の域に至っているかもしれません

 

 

 

たとえとしてあげると

 

複数人で会うときに

基本的には定時で上がれる職場なのに

集まる日に限って残業となり

遅刻してくる人がいます

 

皆で集まろうよと声をかけてくれたり

場所を設定してくれたりする人なので

「本当は集まることが少し煩わしい」

と思っているわけではないのだろうと

想定します

 

それでもほぼ毎回遅刻して

同じ言葉を言うのですね

 

「今日に限って少し残業になった」

 

「職場の人に、

今日は久しぶりに友人たちと会うと

話していたので、

明日でいいよ~

もう行きなよ~と言われてでてきた」

 

と語ります

 

職場はかなりアットホームのようです

 

 

毎回そのパターンのため

思考パターンに

 

「プライベートの集まりよりも

仕事を優先しなければならない」

「プライベートを楽しんではいけない」

 

というワーカホリック的ものがあるのか?

あるとしたらなぜなのか?

 

と、わたしは気になります

 

気になるけれども

 

このような質問を当人にするかどうかは

このような問いが好きそうな人かどうか

場所やタイミングによります

 

それで邪推が始まるのですね

 

 

 

 

「・・という人の思考パターンって何だろうね?」

 

とこの手の話が好きな別の友人に

問いかけたことがあります

 

答えは

 

・職場の人に『今夜は予定がある』ということが好き

 

・退社後に会った友人知人に

『職場の人に今日集まりがあることを話したよ』

『だから残業になっても切り上げていいと言われたよ』

と話すことが好き

 

なのではないか、でした

 

なるほど~

そのアイディアはなかったです

 

真相は当人にしかわからないし

その本人にも自覚があるか

どうかわからないです

 

ただ

こういうことが好きだと気づけば

意外に人は好きなことばかりして

暮らしているのかもしれない

とも思いました

 

悩み多き人は、

悩むことそのものが好き

かもしれないし

 

他人に振り回されてしまう人は

「他人に振り回されるんだよね」

と別の他人に言うことが好き

かもしれません

 
人のしたいことは
きちんと行動に出るものなのだろうと
最近は感じるようになりました
 
そのような目で友人知人と
接したときのことを考えると
はっとすることが多いです

 

おそらく

 

わたし自身が
 
自分では気づいていない
自然にしてしまっている行動で
 
自分の意図していないしたいことを
表現してしまっているのだろう
 
と思うと
なかなかにおそろしい
 
自分を信頼できる自分で居ること
 
というのは中年以降
生涯の目標になるのかもしれません
 
 
日々の生活もまた、良い旅でありますよう!