心臓が、あり得ないくらいにうるさく感じる。
「ふぅ…」
もう、何度目になるかわからない溜息を、私はまた静かに吐いた。
病院から帰ってきてから、ずっとこうだ…。
楓さんとは、病院からの帰りに紫音と一緒に送り届けてから、すぐに別れた。
きっとあのまま、私もハルと楓さんの家に寄っていたら、こんこんとあのことを諭されるのは目に見えていたし。
それよりも、自分自身、この事実を受け止めるのに時間が必要だったから…。
…いや。
事実なんて…
とうに受け止めてるんだ。
それよりも私は、潤にこのことを伝えなきゃいけないってことに、時間が必要なだけなんだ。
相変わらず食欲のない胃の中に、栄養だけはいれなきゃと思って、帰りにコンビニで買ってきた栄養補助ゼリーを口に含む。
けど、それすら私の身体は受け付けなくて…
「ただいまー。」
その口の中に入れたものをどうしようか迷っていたら、玄関から潤の声が聞こえてきた。
慌てて飲み込んだ、半分液体、半分個体の栄養素は、とりあえずそのまま私の食道を通過した。
それなのに、また戻ってきそうになって…
慌ててそれを無理やり飲み込んで、玄関へと向かった。
潤は…
当たり前だけど、そんなこと何も知らずに、靴を脱いでるところだった。
「おかえり。」
潤の頭の方から声を掛けると、びっくりした顔をした潤が私を見上げる。
「…え?
おまえが俺をお出迎えとか…
明日、雪でも降るんじゃ…」
「…どういう意味よ、それ。」
不自然に思われずに済んだ…。
「めっずらしいのー!」って言いながら洗面所へと向かう潤の背を見ながら、胸をなでおろす。
そのことだけが、私を安心させるけど…
もちろん今日は、そんなことだけじゃすまない。
リビングに戻り、ソファに腰掛けた私は、テーブルの上にさっき食べた栄養補助食品の容器を見つけ、慌ててそれを捨てようと立ち上がった。
「なんだよ、それ…」
そこへ、着替えを終えた潤が戻ってきて…
急な言葉に、何も言い返すことが出来ない。
「…え? なにが?」
「…今、手に持ってたやつだよ。」
なんとか誤魔化そうと、手の中に握ってみたけど、そんなことで隠せるわけなかった。
潤は私の横をすり抜けて、ソファにどっかりと座り込む。
そして、握った私の手を開いて、その中身をゴミ箱へと捨てた。
「おまえ… 最近まともに食べてないんじゃね…?」
「あ、いや…
そういう訳じゃないけど…」
「いいから座ったら…?」
そのままソファの方へと引っ張られて…
私は力なく、潤の横に腰掛けた。
潤はそのまま何も言わないで…
私もやっぱり何も言えなかった。
気まずい沈黙の中、潤に見つめられて…
ぐさぐさと見えない矢で刺されてるみたいで…
「この間だって、食べなかったじゃん。
昼寝したまま寝ちゃったって言ってた時…」
「それは…! あれは、寝起きだったから食欲なかっただけで…」
「じゃあ、今は…?
なんでそんなもん、食ってたんだよ。」
「そんなもんって…
そんなこと言ったら、CMに出てる櫻井さんに悪い…」
「そういうこと言って誤魔化すなよ。
…どっか具合悪いのか?」
心配そうに私を見る潤の視線が痛かった。
ちゃんと説明しなきゃいけないのに…
どうして、食べられないのか…
具合が悪いのは確かだけど…
それが何かの病気だからとかでは無いってことを、ちゃんと説明して安心させなきゃいけないのに…
潤の膝が、苛立ちに合わせてゆらゆらと揺れる。
ちゃんと言わなきゃ…
そう思うのに、言葉が素直に出てこない。
「そうじゃないよ…」
今の私には、そこまでの覚悟が出来てなくて…
「なんだよ、じゃあ…。 もしかして、二日酔いとか?」
「え…? あ、そうそう!
なんか飲みすぎちゃったみたいで、食欲なくてさ。」
だから、潤の的外れな言葉に簡単に乗っかった。
確かに今の私は、なかなか取れない二日酔いになってるみたいなもんだったから。
それなのに…
「…嘘言うなよ。
おまえ最近、全然飲んでねぇじゃん。」
「…え…」
「俺がそんなことくらい、気付いてない訳ないだろ?
…なんでそんな嘘吐いたりすんだよ。」
まんまと、潤の誘導尋問に引っ掛かっていた。
いや…
潤の発する言葉たちは、そんな軽いものじゃない。
潤の目は、どこか怒りすら感じるくらい真剣なもので…
逃げ場のなくなった私は、ここで覚悟を決めなくちゃいけないみたいだった。
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