死後神になる | 人はパンのみにて生くる者に非ず 人生はジャム。バターで決まり、レヴァーのようにペイストだ。
家庭を売りにしていたがLGBTQであることを公表して離婚、女性化へと突っ走っていた芸能人が自殺をした。この人には自己本位な行動が目立ったのでバッシングが起きていたが、自殺以後、掌返しでこの人への評価が高まると共に自殺の動機となったであろうバッシングへの急速な非難が起きた。別の事件同様、ここぞとばかりに政治家たちがこの件を利用して言論統制を強める向きを作るべく画策するのだろう。

しかしこの、死んだ途端に評価されると云う流れはどうにかならんものかねと思うものである。子供ならいざ知らず、一人の大人が自殺と云う選択を主体的に行ったと評価するのであれば、自殺は悪いことではなくなるわけで、自殺の原因となったバッシングが悪いと云うこともなくなる。バッシングされても生きる人は生きている。生活が苦しいから犯罪に手を染めたと云う人に対して、たとえ生活が苦しくとも犯罪に手を染めずに生きている人がいるじゃないかと云う理屈と同じである。この場合には、実は自殺した人が生前こんなに素晴らしい人だったのだと喧伝することは悪いことではない。

だが、自殺は良くないことであり、したがってその人を自殺に追い込んだであろう行動を採った人が悪いと云う論理構成を採るならば、生前は批判を受けるが死後は一転評価の対象になることを知ることは更なる自殺を誘発することとなる。生きていては苦しい、死ねばそこから解放されるばかりか評価さえされるようになることは、承認欲求を追い求める人からすれば実に魅惑的な状況を作り出していることとなる。我々の社会では自殺は良くないこととして扱われ、その数を減らすことがある種の国策と化してもいるわけだから、自殺した人を評価することは間違った行動であると云わねばならない。