本田宗一郎(通常) | ~少しでも楽しく幸せに生きるノウハウ~

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どもっ!!
ひぃくんですっ(。・ω・。)

 

 

今回は本田宗一郎さんについて書きたいと思いますっ!!
ひぃくんホンダと言う世界観がもの凄いスキやとです(∵)
専門学校(自動車工学科)卒業後に,ホンダ四輪販売受けましたっ!!
落ちましたっ!!
それでもホンダはスキやとですっ(∵)


本田宗一郎


本田技研工業(ホンダ)を一代で築き上げた実業家・技術者。

生涯:1906年11月17日~1991年8月5日

世界のホンダ(サッカーの方じゃありません・・・)と呼ばれる。
仕事中は厳しく社員からオヤジと呼ばれる。
経営者でありながら社長室は持たず,常に社員と一緒に働いていた。


この記事は大まかに書いていますが,かなり長いです・・・
シァア専用ザクについて来れる方はこちらをクリック

3倍速やとですっ(∵)


The Power of Dreams
【本田宗一郎の生涯(通常バージョン)】
1906年11月17日,本田儀平と妻・みかの長男として生まれる。
高等小学校を卒業後,自動車修理工場『アート商会』に入社。
6年間勤務し,本田宗一郎ただ一人だけが社長からのれん分けを許され,静岡県浜松市に支店を設立し独立。
色んな会社社長を転々とする。

太平洋戦争が終戦した翌年,1946年10月に本田技術研究所を設立(本田宗一郎が39歳の時)
軍の倉庫にあった無線機の発電用エンジンを自転車に組み付け販売を始める。
初の補助エンジン付き自転車の販売(バタバタの完成)
二代目社長となる,河島善好が入社する。
元々あった無線機用エンジンの在庫がなくなると,自らエンジン設計に乗り出し一からエンジンを作る事を始める。
エントツ型エンジンの完成→形がおかしかったため改良しA型エンジンを開発。

1948年に,本田技研工業株式会社(ホンダ)を設立し,本格的に二輪の研究を始める。
どんどん新たなエンジンを開発する(A→B→C→D型エンジン)
しかし,戦後の混乱期であったため本田技研工業のふところは苦しかった。
技術で負けなしの本田宗一郎だったが,経営能力はとぼしかった。
会社の資金巡りで乏しかった本田宗一郎の家にある男が訪ねる。
のちのホンダ副社長の藤沢武夫である。
彼は物を作ったりする技術はないが,営業や経営においてのエキスパートであった。
本田宗一郎42歳(作る人),藤沢武夫38歳(売る人)。
二人の男(夢)が出会った瞬間であった。

その後,販売したバイクが欠陥続きで不評となり経営危機となる。
本田宗一郎は,バイクの欠陥がどこにあるのか探すため不眠不休で働く。
藤沢武夫は,なんとか会社の倒産を避けるため不渡りを出さないように経営した。

ついに欠陥を見つける。
そこからホンダの快進撃が始まる(進撃のホンダ)
日本のオートバイ生産の記録を次々と塗り替えるようになる。

マン島TTレースに初出場する(世界最高峰のオートバイレース)
初出場したホンダのオートバイはヨーロッパで絶賛される。
初出場から2年後に初優勝をかざった。

のちにアメリカ市場へと繰り出す(アメリカで通用しなければ世界で通用しないと考えたため)
日本では爆発的に売れていたホンダだったが,本田宗一郎と藤沢武夫の夢はこんなものでは終わらない。
しかし,アメリカの市場は既に車中心であった。
バイクはあるものの,ハーレーダビットソンなどの大型のバイクが主流だった。
ホンダのバイクはまったく売れなかった。

そんな中,ホンダは生活のためではなくレジャーや趣味などにバイクを使うものへと市場価値をシフトする。
カブ号がこの市場で当たるが,またまた売れなくなる。
カブ号一色にあきてしまったためであった。
様々なバリエーション,デザインの変更をしたバイクを販売しアメリカ市場の息を吹き返す。

のちにF1の世界へとくりだす。
しかし,なかなかホンダが勝つことはなかった(途中リタイヤばかり)
監督であった中村は本田宗一郎に「他社の部品(効率が良い部品)を付ければ勝つ事ができる!」と言った。
これに対し本田宗一郎は「ホンダが作った部品でなければ勝っても意味がない!」と言った。
その後も,なかなか勝つことが出来ずリタイヤ続きだった。
1965年(通算11戦目)にして初優勝する。
これは日本製のマシンで初めての事であった。

月日が経ちホンダな自動車においてもトップクラスとなり始める。
そんな中,自動車の排気ガスが大気汚染の問題視されるようになる。
1970年,アメリカの民主党マスキー上院議員が提案した大気汚染防止法改正法の制定(通称:マスキー法)
この規制をクリアしない車は,アメリカでは販売が出来なかった。
世界中の自動車メーカーは,この規制内容はほとんど不可能であると主張するほど厳しい内容だった。

そんな中,ホンダはCVCCエンジンの開発を始める。
このエンジンは1975年規制のマスキー法合格第一号となった。
世界初のマスキー法をクリアしたエンジンの誕生であった。
当時,本田技研工業の社長だった本田宗一郎は,このエンジン開発の功績から「エンジン屋」と呼ばれるようになる。

自分の意志を継ぐ若い人材が育ってきていると感じ始めた本田宗一郎は,藤沢武夫から副社長辞任の意を伝えられると「二人いっしょだよ」と社長を引退する。
本田宗一郎65歳,藤沢武夫61歳の時であった。
二人の引退は世間に波紋を呼んだが「最高の引き際」として賞賛される。

引退後は最高顧問となり,ホンダ関連の企業(代理店,販売店,サービス工場など)に感謝の気持ちを伝えたい。
社員一人一人に挨拶をし,握手を交わしたいと海外を含め全国行脚の旅が始める(3年がかり)

1991年8月5日,84歳の生涯を終える。


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