新年早々、国宝-十一面観世音菩薩にお会いできました
 
 以前から何度も前を通りながら、そして国宝(全国で七体)の十一面観世音菩薩がおられることを知りながら、ついぞお目にかかったことがありませんでした。
 そこは、京都府京田辺市最南端、国道163号の北奥に入の山間に開けた土地(水取)にある、観音寺です。
 地名と関係があるのかどうかははっきりしませんが、東大寺二月堂で行われるお水取りに使われる大松明用の竹が切り出される地です。
 
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 ここの十一面観音像は、和辻哲郎が「流るる如く自由な、そうして均勢を失わない、快いリズムを投げかけている」と描写した聖林寺のそれと同じ官営造仏所で作られたといわれています。
 その美しさを私の語彙力ではうまく表現できませんが、お寺の略縁起には次のように書かれています。
 
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 「本日御参拝の皆様、我が国有数の天平仏として拝まれます前に、静かに古人の願に想を致し御本尊の麗容からする光に浴され、皆様のお心深く御誓願をおうけ下さい。
 
 仏様を美術品としてみてしまう私たちの至らなさを分かった上で、静かに手を合わせる意味を諭しておられるようです。
 

 
 この観音寺の手前の村、バス停で「utta」とローマ字が書かれていた「打田」には、「須賀神社」がありました。
 ここは、牛頭天王(素戔嗚尊)が祭神ですが、他ではあまり見ることのできない物があったので紹介します。
 まずは、彫り物。
 
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 中国の言い伝えで、「獏の皮を敷いて寝ると悪い夢を見ない」というのがいつしか「獏は夢を食う生き物」というようになったようです。
 
 そして、ここの狛犬がまた珍しい。
 少し見えにくいですが、子どもの狛犬が足元にじゃれついているのが分かるでしょうか?
 
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 続いて、木津川を挟んだ対岸にあたる南山城の社寺を回りました。
 

 
 まずは、蟹満寺(かにまんじ)。
 
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 本尊釈迦如来は白鳳時代の作で、国宝。奈良藥師寺のご本尊と並び立つとさえいわれています。
 今昔物語で語られている「蟹の恩返し」でも有名なお寺です。
 

 
 そのお寺の東側にある「綺原神社」にも興味がわきました。
 まず、なんと読むのか・・・?「きはら」かな・・・?
 
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 解説板を読むと、なんと「かんばらじんじゃ」。そして、この辺りの地名が「綺田」と書いて、「かはた」。
 「神織」と書いて「かむはた」と読む、神に捧げる衣服をおり、養蚕に長けた技術者集団が住んでいた所ということです。
 秦氏の一族でしょうが、地名は歴史をひもといてくれます
 

 
 次に、観音様の浄土といわれる補陀洛山に因んで名付けられた「海住山寺」。 家々が密集した村落を曲がりくねって迫り上がる険しい道を、車幅ぎりぎりで走っていきます。
 境内からは、遠く金剛・葛城の山々が見渡せ、眼下には木津川が流れています。
 
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 この五重塔は国宝で、一階部分に裳階(もこし)があり、心柱は二階から立ち上がっているとのこと。初めて知った構造です。
 
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 ご本尊、重文の十一面観音菩薩のお姿と、両側にある「補陀洛渡海図」も、じっくり見ていると、自然と手が合わさります。
 

 
 「海住山寺(かいじゅうせんじ)」から急さかを下ると、聖武天皇が平安京から都を移した恭仁京あとに出ます。僅か四年あまりでしたが、ここに都が置かれたことはまちがいがありません。
 この辺りの地名は、「瓶原」・・・「みかのはら」と読み、「甕原」とも「三日原」とも書くようです。
 百人一首に出てくる、「みかの原 わきて流るる いづみ川・・・・」は、ここのことで、「いづみ川」は、木津川のこと。 
 
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 この大極殿の片隅に、石塔が建っていました。
 
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 この石塔の後ろにある建物にとても心がひかれ、ぐるっと回ってみました。
 
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 ここは現役の小学校で、その名は「恭仁小学校」。ほとんどが平屋建てで、中央部のみ二階建て。もちろん全館木造です。
 体育館(または講堂?)もあります。
 
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 残念ながら休業日で、中には入れませんでしたが、中の様子は次のブログに詳しく紹介されています。とても懐かしく、床板の節穴に消しゴムのかすやちょっとしたゴミなどを捨てた、かわいい思い出が蘇りました。
 
 

 
 新春早々、ぐだぐだと書いてしまいましたが、とても充実した半日だけのお出かけでした。
 
 さあ、次回は是非とも「バイクでひとっ走り」のコーナーをお送りしたいと思っています。そのために、明日は寒くても走るぞ~!
 
<おまけ>
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