頼朝の風姿 | ひとり灯(ともしび)のもとに文をひろげて

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見ぬ世の人を友とするぞ。こよなう慰むわざなる。
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ようやく治承・寿永の乱の序章ともいうべき以仁王の乱の話が一通り終わったので、次はいよいよ治承・寿永の乱本編へと話が進んでいくわけですが、その前に治承・寿永の乱における主役級の人物・源頼朝(みなもと‐の‐よりとも〔1147~1199〕)についての雑談をしようと思いますニコニコ

 

 

さて、源頼朝って日本の方なら知らない人がいないくらい、日本史上では織田信長坂本龍馬に匹敵するくらい超有名ですよね。

 

でもその風姿というか顔かたちはよくわかっていません。

 

まぁ、平安時代の末~鎌倉時代初頭の今から900年ほど前の人物なので、写真があるわけでもないし、その人を忠実に移した絵があるわけでもないからよくわからないのも無理はないんですけどね・・・スライム

 

 

はい、ではまずこちらから。

 

 

伝・源頼朝像(神護寺三像のひとつ)

 

やっぱ頼朝といったらこの絵でしょ!って方も多いかもしれませんね。

もう教科書には必ず載っているくらいよく見る顔ですもんね。

(なかなかのイケメンなのでこの絵に萌える方がいるんだとか・・・笑)

 

でもこれ、本当に頼朝を描いたものなのか論争になっていて、この絵は足利政権初代将軍・足利尊氏(あしかが‐たかうじ〔1305~1358〕)の弟である足利直義(あしかが‐ただよし〔1306~1352〕)を描いたものと言われて最近ではその説がだいぶ支持されているようです。

 

私もこの像は足利直義じゃないのかなぁって思っています。

ちなみに、この説でいくと神護寺三像の「伝・平重盛像」は足利尊氏。「伝・藤原光能像」は尊氏の子・足利義詮(あしかが‐よしあきら〔1330~1367〕、足利政権第2代将軍)とされているようです。

 

確かに伝・平重盛像(足利尊氏像?)なんて、なんとなく目元が歴代の足利将軍のお顔に似ているような気がしますニコニコ

(足利義詮の像と足利直義の像は目元が逆に足利家らしくない顔をされているとも言えるんですが・・・)

 

 

伝・平重盛像(足利尊氏像?)

 

伝・藤原光能像(足利義詮像?)

 

足利政権第3代将軍・足利義満(あしかが‐よしみつ)

 

足利政権第8代将軍・足利義政(あしかが‐よしまさ)

 

尊氏像、義満像、義政像となんとなく目じりが下がっている感じがしませんか?

ま、判断はみなさまにお任せしますが、私はかなり似たものを持っているとおもうんですよね~てへぺろ

 

 

さてさて、話が若干逸れましたが、頼朝の風姿を探るということで次に見ていただきたいのがこちら。

 

今度は絵ではなく、木像です。

これは東京国立博物館に収蔵されている「伝・源頼朝坐像」です。

 

説明によればこの像は長らく鎌倉の鶴岡八幡宮に安置されていた像で、作られたのは頼朝の死後100年ほど経ってからということで鎌倉時代中期の作品だそうです。

 

なんでも豊臣秀吉が小田原北条氏を滅亡させたあと、鶴岡八幡宮に参拝し、頼朝の像の肩を叩いて、

「アンタもオレも天下人になったが、アンタは家柄の良さも手伝って天下を取れたけど、オレはそうじゃない。だからオレの方が一枚上手なんじゃ。そうじゃろ?」

なんてことを言って悦に入ったとか・・・。

もしかしたら、この像が秀吉に肩を叩かれた像だったのかもしれません。

(おのれサルめ・・・っ!頼朝さんに向かってなんという無礼!!)←およまる心の声

 

それにしても、この像の風貌を見るに、神護寺にある頼朝像とは明らかに感じが違いますよね。

 

続いてはこちらの木像も。

 

 

これは甲斐善光寺にある頼朝公木像なんですが、調べによるとこの木像の中から、頼朝の妻である北条政子(ほうじょう‐まさこ〔1157~1225〕)が作らせたことを示す文書が見つかったとのことで、これが実際の頼朝に近い風貌をした木像なのではないかと言われています。

 

もうこうなってくると、神護寺の頼朝像とは似ても似つきませんあせる

でもこれが頼朝だとすると、私の中の頼朝のイメージがだいぶ変わってしまいます。

 

 

現代の私たちの頼朝のイメージは凛々しいお顔であり、イケメンでありというのが定着しちゃってるので、タイムスリップして、いざこれが本物だよ~ってこの像のような人物が登場してきたらこのオジサン違う!って叫んでしまうかもしれませんね(笑)

 

まぁ、往々にして歴史上の英雄、傑物と呼ばれる人物なんて、会ってみたら身近にいそうな普通のオジサンだった!ってのが実際のとこなんでしょうね~爆  笑

 

 

でも、頼朝さんなら、

 

(2004年大河ドラマ『義経』での頼朝公〔中井貴一さん〕)

 

やっぱこうなりますよね。

 

 

頼朝って兄を慕って一生懸命働いた弟の義経を死に追いやっただけに、冷酷・無慈悲なイメージがあり、日本史の中では嫌われ者の悪役サイドの人物ですが、それなのに現代の私たちがイメージする頼朝の容姿や風貌はどちらかと言えばカッコいい。

 

なぜなんでしょうか?

 

本格的な武家政権の創始者ということで、頼朝は後世の武士たちに長く崇敬の念を抱かれていたためにいつしか容姿端麗なイメージができあがってしまい、それを現代の私たちも多分に引き継いでいるからなんでしょうか・・・。

 

 

 

みなさんは頼朝の風姿どのように感じられますか?

 

 

 

 

それでは、またニコニコバイバイ

 

 

 

 

 

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