深夜のぼやきのコーナ

今日はちょっと
ポエム?哲学?風味です

深夜は哲学的になる
とは
わたしの尊敬するひとの
ことば








ひととの出会いとは
光を形にするようなものだ

光を形にするのは
眼だったり
鏡だったり
そんなものが
形にしてくれる

本来
わたしたちは
ひかりだ

小さなつぶが
小さな振動が
小さなひかりが
あつまって

ひとつのカタチをもつ

ひととの出会いは
眼にうつる
そして
心にうつる

心で
なにかが起こる
なにかを感じる

それは
すべて
自分の中で起こる

自分の中で起こる事も
ほんとうはどこかで
そのひとと繋がっている

父をみて
母をみて
きょうだいたちをみて

祖父
祖母
ともだち
せんせい

そして
ときには
自分にとって特別なひとと
出会う


そのひとを通して
自分自身をみる




父から得られなかった…
母から得られなかった…

そんな想いが
自分の中に巻き起こる事がある

それは
何度も言うけれど
自分の中に巻き起こる嵐だ

父にも
母にも
責任はない

わたしの中に
わたしの「生」の責任がある

あれが足りない
これが足りない
あれが欲しい
これが欲しい

そんな想いを
ひとにぶつけたくなる

しかし
思い出してみると

眼にうつる
心にうつる
それは
すべて自分の中に
起こること

なにかを感じる
なにかを想う

それは
すべて自分の中で
起こる






愛するがゆえに
愛しているひとや
愛されたいひとを
悪者にする事がある

愛しているから
そこに「愛」という
深い気持ち
信頼があるから
繋がりがあるから
あまえてしまう

それは
自分の本当のすがたを
見るのが怖くて

その怖さから
相手の本当のすがたを
奪ってしまう
ことなのではないかと
おもう


そうする事で
わたしは
本来の自分と向き合わないという
バランスを保つのだ




ひとはただそこにいる

そして
そこに映し出しているのは
わたしの想い 




わたし以外のひとは
わたしに
想いを映し出すだろう


それを
わたしは
容易には知ることが出来ない

言葉という
振動をもって伝え合うことは
出来る

だけれども
それを疑ってしまったら??

それは
自分という
迷宮にみずから入り
そこで好きなだけさまようような
選択だ


愛しているがゆえに
悪者にする選択は出来るのに
ただ
その愛を伝える
その愛を受け取る
ということが出来ないのは
どうしてなのだろう

わたしは愛されない
という世界を
信じてしまうクセは
いつなおるのだろう


だれかを愛することを
こわがってしまうのは
どうしてなのだろう


そして
世界を悪者にしようとする
わたし自身も悪者となり
世界に対して色んなことを
いわゆる「やらかしてしまう」


そんなことを
観察しては

恥ずかしいな
悶絶する



ただそこにある
わたしの「生」

どんなことからでも
学ぶことが出来るし
どんなことからでも
愛を知ることが出来る

わたしの中にある
すごいスポットライトが
それを照らすことが出来るからだ


もうどこを照らしても
見つかるものは
そういうものだけだよ

あなたのために
あるんだよ

わたしは
わたしのために
言い続けよう

なにが
そこに
あったとしても

きっと
それは
「愛」

とても信じられないものですら
そうなんだ




ひとに映し出して
みる自分自身

わたしとわたし
向き合って感じる
自分自身

どちらでも
わたしは「そこ」にあった

でも
後者の方が
キツイね 
探求としては
おもしろいけれど…

だからね
ひととの出会いって
素晴らしいんだよ

特に
関わりが深くなれば
深くなるほどに
魅せてくれる世界は
広がっていく

それが怖いよ、と
未知が怖いと
知らない未来は怖いと
言う自分に

過去を例に出して
あった出来事を教えてあげると
そのときは納得する

そうだった
ずっと大丈夫だったんだ

また翌朝
また怖いと言うかもしれない

広がった先の世界で
またバランスを取ろうとする
動き

それが「怖い」

昨日の「怖い」は
今日にはない

同じ怖いにみえて
実は
別の怖い

根拠はない

細胞は日に日に入れ替わるから
昨日と同じなんてない

どんどん変わるカラダと
バランスを取り続けるココロ

安定なんてない
知ることが
安定?

それか
安定と不安定という
2極すら存在しない
無重力状態?

不安定を思ったら
これが安定だ、と
笑える生き方?

安定も不安定も
お互いを支える
ひとつのカタチか?

深夜は哲学的になる



↑哲学だって愛から産まれてる
    愛ってなんなんだ??