言葉とは「記号」である。
「記号」は2つの貌を持つ。
ここではそれを、「形態」と「意味」と呼んでおく。
構造主義の好きな方なら、ソシュール風に「シニフィアン」「シニフィエ」と言うのだろうが、私はこういう気取った言い回しが好きではない。
言語記号は、今皆さんが画面上で見ておられるような形を持つ。
白地に黒いミミズがのたくったような、この文字列の形である。
この形は、もちろんミミズが勝手にポーズを決めている訳ではなく、日本語なら日本語の決まった形があり、それを我々は小学校などで習った。
これを、記号の「形態」と称する。
言語記号には決まった形があるが、これは単なる模様ではない。
記号は、そこに込められた「意味」を持つ。
「カラス」という形の言語記号は、あのカァカァ鳴く黒い鳥を意味する。
当たり前の話ばかりだが、たまに記号を記号として認識できなくなる経験すると、記号というものが、不思議な機能を持つことが理解できるかも知れない。
疲れている時など、たまに軽いゲシュタルト崩壊を起こすと、目の前の見慣れた文字が、見覚えのない模様に解消してしまう。
そのような時には、自分が言語記号というものを、無意識のうちにどのように処理していたのかが分かるだろう。
石ころに石ころをぶつけたら、ぶつけられた石ころは弾け飛んだりする。
「原因→結果」の作用というのは、普通はそういうものだ。
しかし、言葉の場合はどうだろう?
我々は、白地に黒い線が縦横に走っている模様を目にしているだけである。
その模様が私にぶつかってくる訳でもなけせれば、私の手足を絡め取って操作する訳でもない。
にも拘らず、我々はその模様から勝手に意味を読み取り、言葉を原因として次の行動を起こしたりする。
これは大変不思議なことだ。
日本語を理解できない外人は、日本語を見ても「文字っぽい模様」と思うだけで、それを原因とした行動を起こすことはできないだろう。
つまり、言語記号は意味を解する人間にだけ作用する。そして、その意味を解した心を通じて、現実の物理的変化を引き起こすのだ。
「止まれ」と書かれた標識を読んだドライバーは、目の前に障壁がなくても停止する。
「言葉」は、形態と意味を持ち、形態と意味の間には、一対一ではないにせよ、何らかの対応関係がある。
言い換えると、「形態」と「意味」が合わさって言葉が構成されている。
我々が口で話す音声言語もまた、音声が「形態」であり、それが「意味」を宿している。
我々は言葉が持つ「形態」を通じて、「意味」を伝え合おうとする。
そして「意味」というのは、我々が内的に体験する「主観的体験の質感」である。
通常であれば、他人の心の中なぞ見える筈がないのだが、言葉によって他人の心の中を知ろうとしたり、自分の心の中を開示しようとするわけだ。
そして、ここからが本題になる。