長野氏累代の墓~お墓の疑問115~ | のめしこき日記

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 16世紀中盤の戦国時代の上州では長野業正(なりまさ)が覇を利かせていました。箕輪衆として2万人の軍を動かせる力があったそうです。上州を狙う武田信玄はたびたび進軍してきましたが、6度の戦いすべて勝利を得られず撤退しています。

 1561年(永禄4年)業正が病死するとあとを継いだ業盛(なりもり)の代に箕輪城は落城します。

 武田の地になって、箕輪城や付属砦の濠の中に埋められていたものなどを、大正12年ごろ長野氏の子孫の人たちが発掘し、現在地に来迎寺(高崎市浜川町)整理して安置したものです。

 三十数基の五輪塔・宝篋印塔があります。

 

 夏草や兵どもの夢のあと

 

 という、芭蕉の句が浮かびます。

 のめしこきは見つけられませんでしたが、1348年(至徳元年)・1394年(明徳5年)・1430年(正長3年)・1452年(享徳元年)・1489年(延徳元年)・1509年(永正6年)の銘があるそうです。室町時代から戦国時代です。

 

 廟墓も2基ありましたが、これは江戸時代前後の頃に流行ったものでしょうから、ちょっと異質のような気がします。

 

 長野氏の末裔はご健在のようです。