( ; ̄▽ ̄)v- 昨年末の流れ旅の振り返りをもっと早くやるつもりでしたが、バタバタしてて遅くなりました。今さら紅葉もどうかと思いつつ、昨年末は予想外に綺麗だったのでボチボチいきます。まず本来は可児市瀬田の明智城跡の次に書くはずだった久々利の荒川豊蔵資料館。1894年(明治27年)多治見市生まれで、この地に安土桃山時代の窯を作り安土桃山陶の再現に励まれました。


 ここは土岐市と可児市の境にあたり、16世紀後半~17世紀にたくさんの窯があった場所。美濃焼は尾張の瀬戸焼の陶工が美濃に進出して生まれたもので、美濃焼と呼ばれる焼き物は主に多治見市・土岐市・可児市で作られました。



(* ̄ー ̄)v- この地域の陶芸家には「加藤」という姓が特別なものと認知されてますが、それは尾張の瀬戸窯の初代窯主が加藤四郎左衛門景正(藤四郎)という人だからなんすね。鎌倉時代の瀬戸焼の陶祖で、この人の子孫が美濃に移住して窯を開いた。織田信長が美濃を治めた頃、加藤景成が信長から朱印状を得てここに大萱窯を開きました。他にも牟田洞窯などの古窯跡群があり、総称して大萱牟田洞古窯跡とも。ここに1933年(昭和8年)に荒川豊蔵氏が自分の窯を開いたんすね。その住居や窯跡が資料館になってます。


 県道を挟んで駐車場があり、入り口に大萱古窯跡のひとつを示す石碑があります。奥に行くと10くらいあり、古窯跡は山のふもとに複数あったんですね。奥は牟田洞古窯跡群になっており、山の斜面に沿った半地下式の登り窯が並んでいたようです。


( * ̄▽ ̄)v- 11月の終わりに行きましたが、その時は資料館でこんな催しをしてました。美濃焼とは主に黄瀬戸・瀬戸黒・志野・織部の4種類の焼き物を指し、尾張の瀬戸焼に東濃で産出する鉱物を釉薬にした志野と織部に発展しました。東濃は胎土と呼ばれる器の土台をつくる粘土もよく産するので、尾張の陶工がより良い材料を求めて進出したんすね。


 荒川豊蔵氏の窯は普段は非公開エリアになってますが、定期的に特別公開があります。思い出した、来たのは特別公開の前日で、母と来てました。母は若い頃 土岐市の駄知市民病院で看護師をしてて、荒川豊蔵氏の往診に医師の鞄持ちでついて行ってたそう。とくにどこが悪いという訳ではなかったそうですが、当時の院長先生が有名人好きだったとか。それで懐かしいかと思って昨年も一緒に来ましたが、「住居の周りは昔はもっと鬱蒼とした山の中だった」と話してました。


 入り口は杉木立で、右手には竹林もある。まだここだと紅葉の名所には見えませんが、ちょっと踏み込むと行く手に暖かい色合いが見えてきます。


( * ̄▽ ̄)v- 進んで行くとこう。まだ正午前だけど夕暮れみたいすね。可児市と土岐市の境目は11月の終わりが紅葉の見頃のようでした。


 杉木立を抜けるとおおー錦秋。今はもう散ってしまったと思いますが、この時は壮観でしたね。


 ここから牟田洞古窯跡群。ナンバリングは大萱古窯跡群とひと続きになってます。


 この上に作業場、さらに上に資料館がありますがポストが可愛い。こんな場所で暮らしたいなと思ってしまいます。


 これが案内図。資料館の隣に荒川豊蔵氏の窯跡があり、そこは普段は非公開。窯跡の下の斜面が牟田洞古窯跡で、半地下の登り窯があった場所ですね。その向かいに庵や風呂場があり、敷地はけっこう広いです。奥の庵の周りに紅葉が多く、秋は訪れる人が多いすね。


 資料館には古い美濃焼や荒川豊蔵氏の作品が展示されていて、けっこう上まで登ります。この辺りも紅葉が鮮やかで、青空によく映えてました。


 奥に続く小径は小川に沿っていて、ここは青葉と紅葉のコントラストが綺麗。やはり晴天で日射しのある日に訪れるのがいちばんで、この日はご満悦でした。


 ここが3番目の古窯跡。隣に山の神が祀られてます。


 赤みを帯びた黄金色が美しい小川のほとり。水量はあまり無いですが、よく整備されていて自然のおもむきもあり。綺麗すね。


 資料館の斜め下に祀られてるのは陶祖・加藤源十郎景成の碑。瀬戸焼の陶祖・加藤四郎左衛門景正から数えて13代目の景春の五男にあたり、この人が織田信長の時代にここに大萱窯を開きました。美濃焼の祖のひとりです。