今回行ってきたのはここ!

兵庫県にある三木城です

三木上の丸駅から行きました












三木城といえば

秀吉の三木の干殺しが有名


ですが。今回は


尼子上洛戦


1537年

出雲の大名。尼子晴久

足利将軍家が各地に送っていた上洛要請。

斯波、今川、甲斐武田、大友、大内など各大名に上洛要請をしていたが全く動かない大名達。


そんな中で動き始めたのが尼子家!



他の大名達が呼ばれていたので俺が行くわ。

と上洛戦を開始。

1537年から尼子晴久自ら軍を動員

隠岐、出雲全域と石見、安芸、備後の一部に支配をしており、伯耆、美作、備中、備前と瞬く間に制圧。1538年には因幡、播磨へ

播磨守護の赤松政村を撃破。

赤松政村は高砂に逃げたが姫路の小寺氏、明石の明石氏が尼子側について攻撃。

赤松政村は四国へ逃亡。


播磨はほぼ尼子晴久が制圧。




西日本の勢力図は

西の大内、東の尼子

と一時はなっていました。



さらにここで尼子は本願寺と協力したことで
紀州の畠山稙長、丹波の細川国慶といった細川高国残党や幕府と対立する勢力が動き出し、
機内はカオス状態に。
河内を攻略すればもうすぐそこは京都。




そんな中で播磨でこれ以上尼子をすすませまいと抵抗したのが三木城です




別所村治がこの時頑強に抵抗して

尼子の快進撃はここまで。

一度撤退していきます


1539年に播磨守護の赤松政村がその間に四国の細川勢の助力で三木城に入り播磨奪還を目指しました。

しかし

別所が尼子と内通しているという噂が流れたり

細川家の三好連盛が失脚

細川軍が尼子軍に敗北


結局また逃げていっちゃいます




実は裏切ってなかった別所

尼子の2度目の攻撃も耐え凌ぎます



そして大内が大友と和睦したことで

尼子は方針転換

まずは安芸制圧を目指すため尼子軍は撤退。

安芸武田の支援に動き

毛利元就の吉田郡山城への攻撃につながっていきます。



呼んでも来ない守護大名。

呼ばれてないのに来る尼子。  


この後も畿内は織田信長の上洛まで謀略渦巻くカオス状態が続くのでした。


以上

三木城を訪れてみました。














二駅先に秀吉本陣

竹中半兵衛のお墓もありますが遠すぎて行けず

断念えーん