【師のブログより】


「神様や仏様はいないから、どうせ手を合わせても一緒だよ。」っとある人は言う。

しかしながら、本当にそうなのでしょうか⁇

素直な心で手を合わせられている人と手を合わせられていない人の差は必ず出てくるように思わされます。

手を合わせられてない人の大半は、おかげ様だという精神を養うことが出来ていないので、結果的に自分で自分のことを不幸にしてしまい、何事も人のせいにしてしまいがちです。

正しい信仰が出来ている人、手を合わせられている人は自然に何事もおかげ様だと考えることが出来ていくので心が豊かな人が多いように思わされます。

結果的に幸せを感じていける人と幸せを感じていくことが出来ない人の差はついていきます。

これでは、分かりにくい説明になってしまいます。

ここで、例え話しをしたいと思います。

正しく信仰していない人、正しく信仰している人がそれぞれ石につまづき地面に転けて怪我をしたとします。

正しい信仰をしてない人や日頃から素直に手を合わせてない人は、怪我をした時に「なんてついてない日だ。あの石が悪いんだ。誰だ‼︎ここの工事をしたのは。なんで自分はついてないんだ。悪運だ。」っというような考え方をしてしまいます。

しかしながら、正しく信仰をして日頃から手を綺麗な心で合わせられている人は怪我をした時に「石につまづき怪我はしてしまいましたが、おかげ様で、かすり傷程度で命は助かることが出来ました。本当におかげ様です。ありがとうございます。」っという考え方が出来ていきます。

道が開かれていく人、開かれていかない人、おかげ様でと考え方が出来る人と出来ない人で、雲泥の差が出ていくように思わされます。

時には、先祖供養や祈願をしても運気なんか変わらない、一緒だという人がいます。

果たして、本当にそうだろうか........。

先祖供養をすることは、尊き命の繫がりに対して手を合わせているということになります。
この命の繫がりに手を合わせられている人は、自分の親や命にも手を合わせることになります。

何よりも御先祖様を供養することにより、自分自身の命は1人では生きてはいない尊き縁で生かされていることに気付くことが出来ていきます。

その時、無意識におかげ様だという精神を養うことが出来ているように私は思わされます。

何事もおかげ様でと考えられることが出来るようになれば、目に見える御利益は凄まじいものになるかと思います。

今まで多くの方々の祈祷を神様、仏様にお願いしてきましたが、とんでもなく奇跡が起きたり、どんどんよくなるのです。

その良くなっていく方々は神仏から御加持をいただいているのは間違いありませんが、共通することは、何事もおかげ様でと考えられる人が多い傾向に思います。

皆様は、日頃からおかげ様でありがとうございます(^^)っと言ってくれる人を嫌いになりますか⁇

嫌いになることはないだろうし、嫌いにはなれないことだと私は思います。

それと一緒で、何事もおかげ様だといえる人は、結果的に人徳も福徳もついてくる形になっていきます。

だからこそ、神仏を祭祀したり、祈願をしたり、供養をしたりすることに意味のないことは何ひとつないように思わされます。

「おかげ様」というこの魔法の言葉には、幸せになれる宝が眠っているように思わされます。

本当に自分自身を大切に幸せにしてあげたいのならば、何事にも、おかげ様という心を我々は決して忘れてはいけないように思わされます。

何もかも人のせいにして、真実を理解しようとせず、自分を省みないのは良くないことのように思います。

礼ではじまり、礼で終わる。

感謝ではじまり、感謝で終わる。

まあいいっか‼️大丈夫‼️何とかなる‼️

そんな前向きな考えや気持ちで突き進んでいると嫌だったことも全て忘れてしまうものなんです。

不思議なんですよね。

前向きな時、気分が良い時というのは、良いことは覚えていますが、嫌な記憶は忘れているんです。



合掌