キューバから帰国する私の手の中には、1枚のはがきがあった。

 

旅が前兆通りに進み、私は公園のベンチで休んでいた。

ふと、私に旅の前兆を知らせてくれた太陽がまた曇り空から一瞬顔をのぞかせこう言った。

「まだギフトがあるから。受け取って」と。ギフトがあるって?

 

夜。

牧師の息子オシエルがフロリータ(西原恵美子さんの愛称。かわいい花という意味)へ渡してくれと私にはがきを託した。

それは恵美子さんの両親がオシエルの父に宛てたものだった。

消印は1951年。66年前の、確かに存在した「親愛」の形。

ギフトとはこれのことか…。

 

帰国早々に喫茶CUBAへ恵美子さんに会いに行く。

 

すっかり変わったエスメラルダの町の写真を、恵美子さんは知らない町を見るように眺めていた。

しかしその表情が一変した写真がある。それにはまだ青いマンゴーが写っていた。

5月ごろが食べごろなのよね。キューバのマンゴーはとても甘くておいしいのよ」。

懐かしさが言葉にあふれていた。

 

恵美子さんの記憶通り、町の中心には1本の線路が走っていた。

現在は線路の両側に、日陰をつくる木や男たちの娯楽のドミノを楽しむための机と椅子が数㍍おきに備え付けられてあったことを話した。

 

白髪の老婦人は恵美子さんの両親のことをこんなふうに覚えていた。

「とても謙虚で礼儀正しい人たちだったわ。彼らが土で作った家はとても丈夫で、いつも掃除されて整っていたわ。2人の作るオーガニックな料理はとてもおいしかったのよ」

恵美子さんはうれしそうな顔で聞いてくれた。

 

オシエルから託されたはがきを恵美子さんに渡した。

彼女の両親が写る写真の裏には、流暢なスペイン語で「遠く離れていても与えてくれた多くの愛を忘れることはありません。アンヘル・マルガリータ」と書かれていた。

アンヘルは恵美子さんの父、マルガリータは母のキューバ名。

 

彼女はほろほろと涙をこぼした。

日本に帰国してすぐ戦争になり、日本語をほとんど話せなかった彼女はさぞや苦労されただろう。

終戦後、彼女のもとに両親から毎日毎日キューバから砂糖やお酒や衣服が届いていた。

これをお金に変えなさいと。

「いろいろあったんですよ」と恵美子さんはふっとつぶやいた。

 

時々私が「フロリータ」と声をかけるものだから

「フロリータなんて呼ばれるの久しぶりでうれしいわ」と頬を赤らめはにかんだ。

 
2018年3月21日 掲載
 
「純喫茶CUBA」へ。
 
オシエルから託された66年前のはがき
 
フロリータこと恵美子さん
 
キューバで買ったお土産。キューバ国旗のワンピースを着た女性。
すっごく気に入ってくれ、「昨日の事。私やっぱりキューバすきやわぁ。って思ってたん。」ってゆってくれる。
優しい人です。
エスメラルダ
駅構内入口
貨物列車
サトウキビは乗ってなかったけど。
 
 
 
 
 
学校
ミシンとか、扇風機とかちゃんと直して使うけどもう、部品がないから直しようがない。って言ってた。
太陽が「ギフトあるから~。うけとってよ~」って言うてきて。
「ひぇ~!まだあんの~!?結構十分やけど、くれるっていうならもらうね~」って答えた。
 
「ありがとうロベルト。あなたがいなかったら進まなかったよ。ありがとう。」
「いや、神にだよ。」
ありがとうエスメラルダ。ありがとう恵美子さん。
またCUBA来たら戻ってくるね~
 
恵美子さんが瞬間に心がCUBAに戻った写真がこのマンゴーの写真。