全国都道府県を巡った旅の思い出を、時には思い出しながら県別に整理をしています。秋田県の風景になります。


夕焼け    秋田県秋田市土崎港西    (2017年8月撮影)
秋田海上保安部に所属する、巡視船「でわ」のシルエットです。

ポートタワー

秋田港の夜景です。

日本製紙㈱秋田工場
こちらは、朝4時頃の秋田運河対岸の早朝風景ですね。
新日本海フェリー
秋田港からの出航の風景ですね。この船は敦賀行きかな?それとも苫小牧(とまこまい)東行きかな?
セリオンリスタとポートタワー
道の駅「あきた港」にあるランドマークで、前回は詳細を載せなかったので、全高143m、展望室の高さは100m。6,272枚の強化ガラスで囲まれたガラスタワーです。
セリオン
道の駅「あきた港」の商業施設に朝焼けが写った風景です。
子供竿燈(かんとう)    秋田県秋田市山王
秋田県庁前で竿燈を披露する子供達。夜の竿燈祭りまで時間があったので町を散策していました。
赤れんが郷土館    秋田県秋田市大町3丁目
旧秋田銀行本店の建物です。
大手門の堀    秋田県秋田市千秋公園
久保田城跡の中土橋通りからの風景です。
松下門跡
国民年金暮らしの自分には、祭り近くの駐車場に車を止めて駐車場代を払うのは
二の丸跡
1日の食事代に匹敵するので、道の駅「あきた港」から歩いて
長坂門跡
この場所まで来たと記憶しています。まあ、年寄りは金が無くても時間はたっぷりありますからね。
御物頭御番所(おものがしらこばんしょ)
御物頭は秋田藩の行政機構の中では番方に属す役職であり、配下の足軽を指揮して二の門(長坂門)の開閉及び城下一帯の警備を担当した。御番所の南側十四畳の部屋に物頭が詰めて登城者を監視した。北側には七畳半の休息所や台所・便所があり、中二階には八畳の部屋が配置されている。『国典類抄』などの史料によれば、御物頭御番所は宝暦八年(1758)に焼失したのち再建され、安永七年(1778)以降の火災では類焼を免れたと考えられることから、建築年代は十八世紀後半と推定される。久保田城内で旧位置のまま今日まで残っている唯一の建造物である。    (説明板より)
久保田城表門
表門は久保田城本丸の正門で、一ノ門とも呼ばれていた。本丸の玄関口として警備上からも重要な地点とされており、左手には門の警備と管理をする「御番頭局(こばんがしらべや)」、門の下手には侵入者を警戒する「御物頭御番所」を置いて厳重な守りを固めていた。久保田城は慶長八年(1603)に築城して翌年に完成し、表門は元和八年(1623)に最初の建て替えが行われている。その後、寛永十年(1633)、安永七年(1778)など何度か火災に見舞われている。この門は、絵図などの文献資料や発掘調査の成果をもとに再建したもので、構造は木造二階建て瓦葺き櫓門であり、佐竹二〇万石の正門にふさわしい壮大なものとなっている。    (説明板より)
本丸跡
久保田城は、慶長七年(1602)に出羽国へ国替えとなった佐竹氏二十万五千八百石の居城であり、複数の廓を備えた平山城です。
隅櫓
市政100周年を記念して復原された、久保田城の本丸北西に位置する御隅櫓だそうです。
帯曲輪跡
市のHPによると「秋田藩主佐竹氏は、源氏の流れをくむ名門であり、全国でも古い歴史を持つ大名です。
奥庭跡
関ヶ原の合戦のあと、秋田に転封された佐竹義宣は久保田の地、神明山(現在の千秋公園)に新たに城を築き、城下町を建設しました。
裏門跡
以来、秋田市は久保田城下町を中心として近世・近代都市として発展してきました」とありました。
胡月池(こげついけ)
この池に咲く大賀ハスは、1951年(昭和26年)ハス研究家の大賀一郎博士が地元中学生などの協力を得て、千葉市検見川の泥炭層下の青泥層から、約2千年前のハスの種を発掘、発芽に成功しました。この古代ハスは、博士の名にちなみ「大賀ハス」 と名付けられました。
大賀ハス
大賀ハスの花は、一重咲きの大輪で色は淡紅色、花びらにはっきりした条線はなく先端は内向きにややカールし、葉の表面は滑らかです。花の大きさは25㎝前後の大型品種で、花の高さは1.5mほどになります。 (説明板より抜粋)
黒門跡
日が暮れ始めて、いよいよ祭りが近くなっています。
大手門の堀
久保田城址に入った中土橋通りの反対側の堀の風景です。提灯にまだ灯りは入っていませんね。
旭川
大町公園橋からは、県道28号線に架かる歩道橋や、旭川に架かる二丁目橋の上に、竿燈祭りを見に行く人達が歩いているのが見えました。
次回は竿燈祭りのようすです。