<タマキさんに恋をした件のつづき>

ついに僕はタマキさんのいる商業科校舎まで行くためのパスポートも通行手形も、そして勇気も手に入れることはできなかった。つまり会えない日がずっと続いたのである。卒業の日は近づいてくるし、想いは一向に減っていかないし、どうしたものかと思っていた矢先、あまりにも強くしつこく「会いたい」と念じていたからだろうか、タマキさんに偶然会ってしまったのだ。まるで夢が「会いたい気持ち」を伝えるみたいに。

しかしこれは夢ではない。現実の放課後の校門を出たところで、なんとなく空を見上げていたときにその人は目の前に現れた。僕はバネ仕掛けの人形みたいにピョコンって感じで驚いた。一方のタマキさんはいつも以上に大人の女性に見えた。そしてニッコリ笑いながら近づいてくるではないか。

「おー、トシミツは元気であったか」

僕は何もかもを見透かされているかのような気持ちになって、急に恥ずかしくなった。ああ、顔が熱くなる。

「なんだ?顔が赤いよ、熱でもあるのかい?」

「いや、熱はない、です」

この学校の生徒はほとんどが列車通学なのだ。だから、下校時間は歩いて五分ほどのところにある「南清水沢」という駅にぞろぞろと大勢が向かうことになる。僕たちも別に示し合わせたわけではないが、二人並んで歩いていた。

「もうすぐ卒業ですね」

あの夢の中と同じ返事をもらえるとは思ってはいなかったが、どうしてもそれを言いたかったのだ。

「私ね、卒業したらすぐに結婚するんだ」

あの日ムラタから、ルミちゃんには中学時代からの彼氏がいることを聞いた以上に衝撃的な言葉を浴びせられた。脳天と鳩尾にダブルパンチを喰らったような気がした。でも、どうしてだろう、あのときみたいに泣きたい気持ちにはならなかった。

「えっ…そうなんですか」

「がっかりした?」

「いや、その、びっくりして…」

「私みたいな美人のお姉さんがお嫁に行ってしまうなんて、ショックでしょ?」

やっぱりタマキさんは僕の心が見えるのだ。僕のタマキさんへの気持ちは、恋心というより、姉を慕うようなものに近かったのかもしれない、そのことに気づいた。

「はい、ちょっと寂しい、いや、かなり寂しい」

「私はトシミツのことが心配で心配で」

「どういうこと?」

「トシミツってさ、何をやってもトロくて危なっかしいし。だからルミちゃんにも振られたんだろ」

「いや、別に振られたわけじゃない、です。というか、何でそんなこと知っているの?」

「それにさ、なんか変な人たちばかりでバンドを組むんだって?」

「あ、それは結局なくなりまして…それも知っているんですか!」

「あんたって、自分の弟を見ているみたいで」

「タマキさん、弟がいるの?」

「いたんだよ。小学校にあがる前の年に病気で亡くなったけどね」

ルミちゃんのこともバンドのことも、どうやって情報を得たのかはわからないけれども、、タマキさんはいつも僕のことを見てくれていたみたいだ。嬉しさと寂しさが一緒になって、もこもこと胸の中に湧き上がってくる気がした。

「何となく思い出すんだよね、トシミツを見ていると、小学生にもなれなかったあの子を。高校生になったら、たぶんこんな風になったのだろうな、って」

 

これがタマキさんと過ごした最後の時間だった。別れ際にタマキさんは「じゃあね」とだけ言った。僕はさようならと言ったつもりだったが、声があまりにも小さかったのできっと届かなかったと思う。後になってから、幸せになってくださいとか、たまには部活を見にきてくださいとか、そんな気の利いたセリフが言えなかったことを悔やんだ。

しかしこれらのできごとで、高校を卒業するということは社会に放り出されるということをあらためて知った。良しにつけ、悪しきにつけ、放り出されてしまうのだ。すぐに結婚するというタマキさんは、自分で自分を大人に仕立て上げ、そしてそこに飛び込んでいったのだろう。そう思えるようになった僕も、ちょっとだけ大人に近づいたような気になった。

 

僕のことを弟みたいに思ってくれていたのは本当だったみたいだ。卒業式の夜、また夢の中にタマキさんが出てきた。夏用の眩しいくらい白いセーラー服を着ていた。ちょっとだけ笑ったような、ちょっとだけ泣きそうな顔で僕の前に立っていたのだが、不意にくるりとターンをした。そのときスカートがひるがえり、すらりと伸びた白い脚が見えた。そしてそのまま振り向きもせず、ひとつの迷いもない足取りで歩いて行った。目が醒めてからも、僕は白さの印象だけがいつまでも目に焼き付いていた。