江上天主堂 @奈留島
世界文化遺産「奈留島の江上集落」構成資産。国指定重要文化財。
長崎県 五島列島 6泊7日旅行 備忘録
1. 長崎県 五島列島 6泊7日の気ままな一人旅 : 福江島(ふくえじま)~中通島(なかどおりじま)~若松島(わかまつじま)~奈留島(なるしま)~福江島(ふくえじま)
【6日目:その4】
すべて奈留島 江上天主堂を通り越してたどり着いた海岸 >> 江上天主堂 >> 皺の浦ビーチロック(池崎のビーチロック)・池塚のハマジンチョウ >> 奈留教会 >> みかん屋食堂 >> 奈留ターミナル
走行距離 15.1㎞ 31分位のドライブ + 観光
さっきここ通った時、Google 先生が ”目的地は、左側にあります”と、連呼していました。
あ、ここさっき通り過ぎたとこだ。。。と思いつつ、車を停めて、じーーーと遠くの森の中をくまなく見てみると・・・
なにやら、森の奥に建物がうっすら・・・
ありました 江上天主堂 この広場・・・何か看板出てたのかな??まったく気が付きませんでした。だいたいどこに行っても、教会が近づいてくると、建物の一部、十字架部分が見えたり、案内板が出てたりするんですけどね。。。
江上天主堂は、他の教会とはまったく趣が異なりました。
■江上天主堂 @奈留島
この広場にどーんと車を駐車して。一台、貸し切り状態 教会に向かって歩いて行くと・・・見えてきました!クリーム色のかわいい建物
赤い矢印のところが、教会へのアプローチです。
▼振り返ると、車を駐車している広場。その先には”海”
【五島市役所公式サイトより】
江上(えがみ)天主堂の歴史は、1881年(明治14年)3月に潜伏キリシタンの4家族が洗礼を受けたことにはじまります。かれらの先祖は、江戸時代末期に大村藩領(現在の長崎市外海(そとめ)方面)から移住してきたのでした。そのころ江上地区には教会がなかったため、信徒の家でミサがおこなわれていましたが、1906年(明治39年)、現在地(奈留(なる)町大串1131)に簡素な教会が建てられました。
本格的な教会が建築着工されたのは、1917年(大正6年)でした。当時の信徒は40戸から50戸でしたが、各地で教会建築をしていた鉄川与助に設計施工を依頼し、信徒たちはタブの木を伐りはらって敷地を造成しました。建築資金はすべて、キビナゴの地引網(じびきあみ)で得た収入などを出しあい、翌1918年(大正7年)3月に完成させました。
江上天主堂を訪ねると、緑の木々の間からのぞく白い壁、窓がブルーの外観からは愛らしい印象を受けます。建物の構造は、湿気を避けるために床を高くし、柱には手描きの木目模様、窓には花を描いた透明ガラスを工夫していることなどが特徴です。内部は本格的な立面構成の三廊式になっており、リブ・ヴォールト天井(蝙蝠(こうもり)天井)の美しい曲線が、人々の祈りの空間をあたたかく包んでいます。
この教会は、わが国における木造の教会のうち、完成度の高い作品として歴史的価値に優れ、小規模ながら教会建築の名工鉄川与助の代表作としても重要であり、2008年(平成20年)6月9日、国の重要文化財に指定されました。
2018年登録となった、世界文化遺産「長崎と天草地方の潜伏キリシタン関連遺産」の構成資産です。
こちらで、教会内部の雰囲気がちょっとだけ見えます。
そして、五島市役所公式サイトに掲載されていた、教会内部の写真をお借りしました。できれば、実際に教会内部に入ってみたかったです。
江上天主堂は、建物自体は本当にこじんまりとしていて、素朴な感じ。正直、え?これが世界遺産構成資産??とちょっと驚きました
でも、しばらくこの場所でウロウロ、時に、ぼーっとしてみたりすると、教会を取り巻く自然環境とその佇まいが、唯一無二な感じがしました。まるで、メルヘン、おとぎ話の世界のような感じです 究極の”素朴”Beauty でしょうか
▼江上天主堂の前には透明度抜群の碧い海!左側。江上天主堂を通り過ぎて、この奥の崖の向こうまで行ってしまいました
▼右側。これから、この海岸沿いをドライブして、”皺の浦(しわのうら)ビーチロック”に向かいます!
▼上記写真の対岸で撮影した写真。海の碧さが際立っていました。
@奈留町大串
■皺の浦ビーチロック / 池塚のビーチロック @奈留島
ビーチロックの入口に車を停めて、遊歩道を歩きました。こちらが、来た道を振り返って撮影した写真。左側に写っているのが、遊歩道です。
めちゃめちゃ道が狭かったので、遊歩道手前で駐車しましたけど、もしかしたら、運転に自信がある方は、ビーチロックまで車で乗りいれてしまうのかもしれません・・・
【五島市役所公式サイトより】
大串池塚(ラグーン)海岸のビーチロックは、砂や礫が可溶性の珪酸(けいさん)と炭酸石灰質物で堅くセメント化されて、幾層にもかたまったもので、ビーチロックの中からは、縄文時代前期の曽畑(そはた)式土器が発見されました。
『皺の浦ビーチロック』、という表記と、『池塚のビーチロック』がありますが、同じビーチロックを指すようです。
地質学的にとても価値があるようですが、その辺はよくわかりません
シンプルに美しい景勝地でした
このビーチロックのエリアは、”池塚のハマジンチョウ”というお花の生息地としても有名のようでした。
【五島市観光物産課公式サイトより】
ハマジンチョウの群生地。花にはメジロがやってきます。入江の奥の波静かな満潮線のあたりにだけ生育するという特色をもつハマジンチョウ。奈留港から車で北西に約30分、ビーチロックの手前にその群落があります。海とつながっているのに、なぜか満潮時には水位が低く、干潮時には水位が高くなるという謎の池塚。開花は大体12月~3月頃です。
ビーチロック手前には、”ハマジンチョウは、こちら”みたいな看板があり、草藪の中、道なき道??みたいなところを歩いて”ハマジンチョウ”を見に行けたのですが・・・・”ハマジンチョウ”って何?って検索してみたものの、なんとなく興味が持てず・・・結局、行かなかったので、五島市観光物産課の公式サイトに掲載されていた写真をお借りして掲載いたします。
車を路駐した場所からの景色。何気ない奈留島の日常風景だと思いますが、とにかく、絶景。(観光客にとっては)
これで、奈留島の主要観光スポットは、一応網羅したと思いますので、これから、奈留港近くの市街地に行きます 市街地では、奈留教会を観光して。遅めのランチをしようと思います
■カトリック奈留教会 @奈留島
街の中の高台に建つ教会です。
奈留教会での思い出は、思いっきり転んだこと。。。 手と膝に、全治1週間、みたいなケガをしました。。。旅が、すべて順調過ぎたので、ここでちょっとバランス取ったかな?とポジティブに処理、逆に、奈留教会の思い出が、痛みと共に体に刻みこまれて、ある意味忘れられない思い出になりました( ´艸`)
▼とても狭い敷地内に建っている教会なので、遠くから全貌を撮影することができませんでした。これくらいが限界。。。
【ながさき旅ネット公式サイトより】
江戸時代末期、大村藩から移住した潜伏キリシタンたちは、奈留地区の葛島をはじめ島内各地に分かれて住み、開墾に従事しながら小さな集落を形成していきました。1868(明治元)年の五島崩れの翌年、葛島の信徒12戸が役所に呼び出され、当時の頭取(郷長)ら3人が算木責めの拷問をうけましたが、奈留島ではこれ以上の迫害は伝えられていません。
1873(明治6)年に禁教が解かれ、五島各地に教会が次々に建てられましたが、その頃の奈留島と周辺地区には葛島と江上の2教会しかありませんでした。最初の奈留教会は、建設資金の大部分を宿輪集落の信徒たちが負担し、上五島青方の大工に依頼して、1926(大正15)年、現在地に完成しました。その後拡張工事もおこなわれましたが、1959(昭和34)年、台風時には持ちこたえることができないとの判断がなされ、信徒の手で解体されました。
現教会は1961年(昭和36)年に建設着工し、同年12月に祝別、献堂されました。奈留教会史に残る出来事のひとつは、1973(昭和48)年3月に葛島の島民が集団で樫木山地区へ移転し、信徒の全員が奈留教会の所属になったことです。離島のさらに離島である葛島での生活の維持が困難になったためでした。葛島は奈留島地区のなかで大村藩の潜伏キリシタンの移住がもっとも早くおこなわれ、百数十年間にわたり熱心な信仰の歴史が刻まれた島ですが、この集団移転により、葛島教会は廃堂となりました。
▼都会の内部は、とてもシンプルな感じが致しました。
これで、奈留島の観光は完結です
やっと遅いランチです
■みかん屋食堂 @奈留島
奈留港ターミナルの観光案内所で教えて頂いた、”みかん食堂”さんで、長崎皿うどんを頂きました。長崎ちゃんぽんと迷ったのですが、なんとなく・・・皿うどん。どちらかというと、皿うどん派です。なぜかというと・・・面が揚げてあるから(笑)
素朴なお味でした。
奈留島の観光では、こちらの地図を参考にしました。
http://www.kasamatsu-museum.com/pdf/narumap_goto.pdf
お食事後、奈留港のターミナルビルで、レンタカー(電気自動車)をお返しして、奈留港から五島旅客船のフェリーに乗船。福江港に戻ります
■五島旅客船フェリー”オーシャン”
フェリー”オーシャン”、15:55奈留港発、16:40福江港着。またまた、2階最前列のお席占領 どうやら、地元の皆様には2階最前列のお席、まったく人気無いみたいです。
だんだん陽が落ちてきました。
奈留島、楽しかったな・・・