ニューヨークから帰って私はダンナに「話し合おう」と持ち掛けた。


この頃の彼はクライアント先から帰ってきても自分の部屋に閉じ籠り、私が彼の部屋にコーヒーを持って行っても

「仕事の邪魔するな。」と言うだけだった。
元々そんなにべったりするタイプではなかったけれど、私にはなぜ彼がこうも私に冷たくなるのかが本当に謎だった。
付き合う時には、あんなに懇願されて付き合い始めたのに、男の人ってこんなにも豹変するものなの?
もちろん年月が経つと始めの頃の情熱は落ち着いてくるけれど、それは静かな愛情に変わっていくからであって私にはこんなにも自分が邪険に扱われる理由がどうしてもわからなかった。
20年以上セックスレスだったけど、彼の部屋にAV的なものを見つけたことも何度もあるので、それなりに処理しているんだろうと思っていた。でもそれではいけないと、恥ずかしさを我慢しながら私から誘ったことも数回ある。20年目、25年目と節目の結婚記念日に二人で旅行に行った時には敢えてダブルの部屋を取っていた。それでも私たちの間にはまるで見えない壁でもあるように彼の熱を感じることは出来なかった。


もちろん、マスオさんをしてもらっていたという事もあって家は気づまりだったと思うけれど、家は十分に広く、自分の空間(個室)を確保していたしその気になれば私の父と全く顔を合わせずに過ごすことも出来ていた。
独立して大変なのもわかっていた。だから、「邪魔!」ときつい言葉で言われようとそっとコーヒーを置いていくだけの日々が続いた。


ただ、独立前に二人で行ったキャンプで、彼は私に「家族を大切にするから」と誓ってくれていた。私もそれを信じて、彼に余裕が出来るのを待っていた。でも余裕どころか、誓ってくれていた「家族を大切にする」ってどういうこと?という疑問が私の中で湧き上がるだけの日々だった。


そして話合いは平行線。彼は口癖のように「お前は俺を馬鹿にしている。尊敬してないだろう。」との一点張り。いくらそれは違うと私が否定しても彼はそういい続け、頑として私を受け入れない。
私は繰り返される暴言にも疲弊していた。

「お前といてもつまらない。」

「お前は俺の足を引っ張るのか?」

「お前は邪魔。側にくるな。」

 

そして忘れもしない、娘と三人で行ったイタリアンレストランで彼は言い放った。

「もう、お前たちを養うのは嫌だ。」

私は耳を疑った。いやいや、そりゃ私は娘が生まれて数年専業主婦をしましたが、それ以外ずっとフルタイムで働き、あなたが繰り返す転職の合間には家計を支え、家事も育児もほぼ一人でやってきましたが?
そして、一人娘の前でそのセリフ…。体中の力が抜けていくような虚脱感…。


それに加え同じ頃、価値観は古くて合わないけれどいつも私を気遣ってくれていた実父が倒れてしまう。
80を過ぎていても毎日自分でスポーツジムまで30分歩いて出かけて行き、1キロの水泳、マシントレーニングをこなしていた父。そんな元気者だった父が突然倒れて入院し、コロナ禍でろくにお見舞いも行けずに2か月弱の入院後帰宅した父は廃人の様に弱っていた。あんなに丈夫だった、しっかり筋肉がついていた手足は見違えるように細くなり、家の中でさえ歩行も困難になっていた。


それから凄まじい介護の日々が続く。おまけにその頃私は会社を退職して起業したばかりだった。毎日、仕事と父の介護の日々。
朝は父のオムツ替えから始まり、朝食、投薬の管理、シャワーを浴びさせ、髭剃り、爪切り、入れ歯の手入れ、寝具が汚れていれば毛布や敷布まで洗濯する。歩行訓練の為に嫌がる父を立たせて少しずつ歩く。そうしているうちに昼食、投薬、また夕食、投薬。その合間に、時には娘の手を借りながら何度もオムツの交換。汚物の匂いの染みついた部屋の除菌や徐臭。オムツや介護用品の買出し。そして介護認定を受ける為の事務手続きや通院の付き添い。
父の世話だけであっという間に1日が過ぎてしまう。そんな私にダンナは一瞥もくれない。子育ての時と同じ。

義理の関係とはいえ、30年近く一緒に暮らした父の介護を手伝うことはただの一度も無かった。

独立してから、何やらスピリュアル系にハマっていたダンナは玄関に盛り塩をしていた。ある日、朝食を終えた父が自室に帰る際に私が支えて廊下を歩いていると、盛り塩を取り換えようと持っていた塩をよろける父の背中に撒いた。
まるで、穢れを払うかのように。汚いものが付いているように。薄ら笑いを浮かべながら…。

初めは男同士仲良く喋っていた時期もあった。けれど彼の私に対する酷い態度を見て、それでも自分が口出しをするとますます夫婦間がこじれてしまうと遠慮して、ものすごいストレスを感じながらも何も言わずに堪えていた父。
何かと気遣って耐えていた父の背中に投げつけられた塩の塊。たぶんあれが決定打だったように思う。

ある日くだらないことでまた大喧嘩をした私たち。何かがプツンと音を立てて私の中で切れた。
義母に電話して「私たち、離婚します。」
これが私が優しかった義母と交わした最後の会話になってしまった。


それからは早かった。ダンナはさっさとどこか知らない場所に荷物を運び始め、暫くすると部屋は空っぽになっていた。
離婚届は6月の末に出す事になった。