大きい方は「27 天奏楽」

劇的な「幸福」を求めて
幸福を取り逃がしています。

それは「幸福」を
思考に当てはめているからです。

考えるよりも感じて下さい。

小さい方は「1 聖観音」さま。

聖は「清らかな著しい光」
我欲の超越。

光が近付くところ
闇も迷いも一瞬にして消え去ります。

心の灯火に照らされて
道はおのずと姿を現します。

2つ合せると

幸福はしばしば
「退屈」な顔をしています。

平凡でとても普通です。
今日が来たら明日が来るように。

そうなのですか?
明日は間違いなく来るのですか?

自らが光となるには?

いつも心に夢と希望と憧れを抱き続けると
自らが光源となります。

外に求めたものを内に見出す。
それは光明の只中にいることに他なりません。

イマココの自分を信じなさいということでしょうか?自らの中に光を見出せば、光源となって闇を、周りを、照らして明るくすることが出来る。それを他人様に求めるから辛く苦しくなるのだと。自らが光源って素敵ですね。その為には、我欲を捨てて、常に夢と希望と憧れを抱き続ける。そうすると道はおのずと姿を現すと。そうなのかもしれません。四面楚歌だと思って俯くと真っ暗になって周りも見えなくなるのかも。深く自分と対話して自分を信じることを諦めずにいれば、想像もしなかったドアが開いて、いきなり運命が変わるってことありますね。どうにもならないと思う時こそが、試されている最も大切な時なのかもしれません。大谷選手がごみ拾いが好きだと聴きました。「ゴミは人の落としたツキだから」と。素晴らしい考え方だと思いました。あんな偉大な選手が見えないところで、とても地味な陰徳を重ねている。天はちゃんと全てを見ているということなのですね。顔を洗って瞑想をしてイマココですべきことを淡々と重ねたいと思います。