今週土曜日が当園の運動会、天候を気にしつつ、「なんとかなるよ」という心境。その運動会の総練習を今日行いました。「練習する」という言葉は、子どもにはなじみの言葉です。本番があって、そのために「練習する」ということになります。でも、です。0歳児や1歳児に「練習する」ってどんなこと?という素朴な疑問が。保育の世界に身を投じてから、この「練習する」は普通のことでしたが、この10年前くらいから、「練習する」ことの「営み」に少し疑問が生じてきました。「練習する」ことは、もしかすると子どもにとって何か「無理強い」していないか、何度も繰り返すことは日常の保育に「亀裂」を生じさせることはないか、などの素朴な疑問というより,不安です。保育の特質をその日の「一回性」に置きながら、この「一回性」で生起する「いきいき」とした子どもの「心情」を、「練習する」ことは抑えることにつながらないかということです。自分のなかで結論は出ていません。たとえば青森の伝統的舞踊(民舞)である「荒馬」は、東日本の風土であった「馬」文化を背景にした「馬乗りリズム」が基調にあります。このリズムを感じながら(拍感・リズム感)踊る「荒馬」は、リズムを聞きながら身を「馬」になって「並足」や「駆け足」や「振り」を「二つケン」や「四つケン」の「跳び足」を要り交ぜながら踊るものです。青森の地元の子どもたちは、小さい頃から生活のなかで「体得」した民舞です。保育園や小学校で民舞を踊ることは。伝承文化を保育・教育教材として受け止めて臨みます。したがって限られた時間(保育園なら約5年ほど)の取り組み(保育教材としての)には「練習する」は必要なことです。ここで大事なことは子どもたちが「楽しんで」挑戦すること。きょうだい園の卒園児が絵画集の「語り」のなかで「くるくる回るのが楽しい」と語っていた「御神楽(みかぐら)」の実践は、子どもが年長児としての誇りと意欲をもって取り掛かっていた子どもの姿をよく表しています。0歳児や1歳児の「かけっこ」を見ていると、やはりひとは前にむかって進もうとする、そんな存在であることが分かります。ここに「練習する」はありません。でも成長の過程をたどるなかで、「もっと早く走ってみたい」とか「ともだちと一緒に駆けてみたい」という欲求を補完するための「保育の支え」として「練習する」ことは「有りかな」と思います。運動会のもうひとつの側面である「ごっこ」との「融合」は、「ごっこ」が即興性を有するゆえに、ことに「練習する」こととの関係は難しい課題です。が、子どもたちはいつも楽しそうです。

にじGの戸板の支えにいるとき、生身のこどもをいつも感じます。バランスを取ろうとして脚が震えている子、戸板の上に立ちあがり跳ぼうとするときの子どもの決意のような気迫など、です。この子どもたちが生身ゆえに「気迫」を保障するための「練習する」という思いがあります。いろんな場面で在る「練習する」ことの意味を引き続き考えていきたいものです。(K)