Tu as toute la vie devant toi! -5ページ目

憲法は不変のものとして神棚に奉るものではない

日本国憲法は戦後の焼け野原の
日本の再興に充分その役目を果たしてきました。
婦人参政権は女性の地位と権利を生み出し、
女性に飛躍的な社会進出をもたらすなど、
私達は戦後新しく作られた憲法から
おおいなる恵みを享受して
世界有数の経済大国となったわけです。
しかし私達は一つ勘違いをしています。
憲法は時代にあわせて改定していくものなのです。
憲法を私たちは使いこなすべきなのに、
それを一言一句変えてはならない不変のものとして
反対に憲法に私たちが使われています。
憲法は、日本の誇りを伝え、
進むべき指針を示すものです。
ソロモンの「目的なき民族は滅びる」の
言葉を出すまでもなく、
経済大国を目的として進むべき時代は終わり、
日本こそ世界のリーダーたる
「徳を修め、恩を感じる心の連鎖を生み出す」
目的のための新憲法作りに英知を注がねばなりません。
新憲法を基にすることによって初めて、
現代の様々な問題、残虐な事件、
家族の崩壊などが解決できるのです。


西遊記


ブッダの教えを求めて
インドに渡った三蔵法師
今のアフガニスタン東部から
パキスタンにかけて、
かつてガンダーラという国が栄えました。
紀元1世紀頃、ブッダの像、
すなわち仏像が
この地で初めて作られたのです。
それまで仏教では
偶像崇拝をしていませんでした。
ガンダーラ美術にみられる仏教では、
インド人のブッダがギリシア
彫刻のような彫りの深い
いでたちをしています。
 2001年、アフガニスタンの
バーミヤンの巨大石仏が、
当時の支配勢力タリバンによって
破壊されたことは有名です

なぜアフガニスタンに
仏像があるのか
疑問に思われた方も多いでしょう。
今はイスラム教の地ですが
かつては、もっとも仏教が
栄えた地域の一つだったのです。
 仏教は1世紀頃には
シルクロードを
通じて中国に伝わっていたと
されています。
初期の中国仏教において、
私たちにもっとも身近なのは、
唐代初期の
僧侶玄奘三蔵、
いわゆる三蔵法師でしょう。
「西遊記」は
玄奘三蔵の旅を記録した
「大唐西域記」が
ベースになっています。
三蔵法師さまが
お経を求めて天竺、
すなわちインドを
目指すお話です。
 お経はそれまでも
中国に伝わっており、
いくつか漢訳も
行われていました。
しかし玄奘は
正しい教えを知るには
サンスクリット語の
原点にあたることが
欠かせないと考え、
インドに向かったのです。
 時は7世紀、
長安(現在の西安市)
に都をおく
唐王朝の時代です。
玄奘は国を出ることを
許されなかったため、
ひそかに出国する
という危険をおかして、
天竺への旅に出ました。
そして中央アジアを経て、
世界最古の大学とされる
ナーランダ僧院で
本場の仏教を
学ぶことができたのです。
 膨大な経典と共に
長安に帰還したのは
16年後。
当時の皇帝が仏教信者だったため、
国禁をおかして
出国した罪には問われませんでした。
逆に勅命によって
一生をお経の漢訳に
捧げることができました。 
中国仏教も、
それを受け継ぐ
日本仏教の発展も、
玄奘のインド行の偉業が
もたらした結果です。
玄奘がお経を求めて
命がけでインドに向かった。
この事実に他の宗教にはない
仏教の一面が表れています。
つまりブッダの教えは
向こうからはやって来ない、
こちらから求める
ものだということです。

暢順法主が再三おっしゃる
信心は獲得する、
こちらから獲りにいくことが
大事だということですね。

キリスト教には
宣教師がいます。
私達は使命や任務の意味で
ミッションという言葉を使いますが、
もともとは伝道という意味です。
敬虔なキリスト教にとっては
神の言葉を世界中に
送り届けることは
大切な使命なのです。
一方仏教では、
玄奘は自分でお経を取りに
いかねばなりませんでした。
日本の最澄や、空海も、
遣唐使船で中国に
仏教を学びに赴きました。
向こうから日本に
来てくれたのは鑑真くらいです。
広めようという意思がないのに、
広く浸透していったのですから
よほどの魅力が備わっていたのでしょう。
仏教の魅力とはなんでしょうか?

みなさんの子育てでよりどころと
なるべきものです。
子育てで一番必要なもの、
親である私たちに一番必要なものです。
それをダライラマ法王は
「仏教徒になる必要はありません。
よい生き方をすればよいのです。」
とおっしゃいました。

そして暢順法主はこう仰います。
「感恩、恩を感じる
人生が最良です」

一神教でない仏教には、
多彩な価値観を認める
懐の広さが備わっています。
この仏教の持つおおらかさこそ、
八百万の神と共に生きてきた
日本人にとって仏教が
親しみやすい理由の一つです。

サザンオールスターズ

先日歌手の桑田佳祐さんの
特集インタビューがありました。
桑田佳祐さん(54)は
サザンオールスターズを結成して
「勝手にシンドバッド」で
デビュー以来、加山雄三さんに続く
茅ヶ崎が生んだ天才と呼ばれています。
しかし食道がんの宣告を受け、
歌手活動を休業し闘病生活に
入っておられました。
のどの手術は、歌手生命にも
関わる事である為、
治療選択も含め大変悩まれた事でしょう。
闘病中の桑田さんのインタビュー
を聞いて、まるで別人のような言葉、
そして「無常」を感じさせる発言に
私は驚きました。
「自分は僧侶ではないけれど、
皆の仕合せを考えるようになった」
と言われたのです。
その他にも「死について考えた」
「今が大事な時間と思えるようになった」
「残された時間を、愛する家族と
縁のあった人々の為に使いたい」
「これから先は、いただいた時間と思いたい」
という言葉の数々を語られました。

蓮如上人には、
命や人の死に出会われた時に
書かれた『御文』が数多くあります。
有名な『白骨の御文』もそうです。
蓮如上人が58歳の頃、
ここ吉崎で見玉尼を亡くされてから
「無常」という言葉が『御文』に書かれるようになり、
「無常」の語が入った
『御文』は30通以上あります。

桑田さんの感じる「無常」も
そうだと思うのですが、
蓮如上人の説かれる「無常」は、
松尾芭蕉や鴨長明、吉田兼好のように、
「無常」だから世を捨てる、
世をはかなむという類のものではありません。
滅びの美学や、山にこもり世捨て人になる
無常観とは異なります。
「無常」なるがゆえに、
その現実を受け止め積極的に生きていくのです。
前向きな人生を送る事なのです。
蓮如上人は、世をはかなみ隠遁されることは
ありませんでした。
どろどろとした社会の中に身をおき、
「無常」を直視されたのです。
「無常だからこそ、早く仏法に出会いましょう」
「本願の救いに感謝できる生活に入りましょう」
「仏法の教えに目覚めて生きていきましょう」
これがつまり平生業成の営みということです。
桑田さんもこれからの人生を
積極的に生きていかれることでしょう。

こんな夜は、
月を眺めながらゆっくり
自分の我や苦しみと向き合い、
それを積極的に引き受けてみることも大切ですね。

金子みすず



「雀のかあさん」と「星とたんぽぽ」は、
金子みすずさんの詩に
私が曲を付けました。
昨年10月に山口出身の
金子みすずさんの曲を作ってほしいと
安倍首相夫人主催の
アグリアート委員会から頼まれまして
初演しました。
この2曲はあっという間に作れたのが
自分でも不思議なくらいでした。
今日はその金子みすずさんに
関していくつかお話をさせて頂きます。

「雀のかあさん」
子供が小雀つかまえた   
その子のかあさん笑ってた
雀のかあさんそれみてた  
お屋根で鳴かずにそれ見てた 

読み返すほどに、
心の奥に入ってくる詩です。


「お魚」
海の魚はかわいそう  
お米は人に作られる
牛は牧場で飼われてる
鯉もお池で麩をもらう。
けれども海のお魚は    
なんにも世話にならないし
いたづら一つしないのに  
こうして私に食べられる
ほんとに魚はかわいそう

お魚の詩はみすずさんの処女作です。
これらの作品には、
生きとし生けるもののいのちへの、
そっと寄り添いながら、
どうしようもない哀しみの中で
生きるいのちへの優しいまなざしと、
命への共感がテーマでした、
そのテーマの原点ともいえる
佛さまの大慈大悲のまなざしが感じられます。

「大漁」
朝焼け小焼けだ 大漁だ    
大羽鰯の 大漁だ
濱は祭りのようだけど     
海の中では 何萬の
鰯のともらい するだろう

大漁でにぎわうその浜辺とは別に、
浜辺のにぎわいの声が届かない海の中では、
まちがいなく悲しみに包まれた
静寂の世界が広がっているのです。

「報恩講」
「お番」の晩は雪の頃、     
雪はなくても闇のころ
暗い夜道をお寺へ着けば、    
とても大きな蝋燭と
とても大きなお火鉢で      
明るい明るいあたたかい
大人はしっとりお話で      
子供は騒いじゃ 叱られる
だけど、明るくにぎやかで    
友だちゃみんなよっていて
なにかしないじゃいられない。  
更けてお家へ帰っても
何かうれしい  ねられない   
「お番」の晩は夜中でも
からころ下駄の音がする

みすずさんが母や祖母と
お参りしていたのは
浄土真宗遍照寺でした。
報恩講の頃、日本海から青海島を
乗り越えるように吹いてくる
冷たい風はいつも雪を運んできたようです。



「さびしいとき」
私がさびしいときに   
よその人は知らないの
私がさびしいときに   
お友達は笑うの
私がさびしいときに   
お母さんはやさしいの
私がさびしいときに   
佛さまはさびしいの

ほとけさまは、
いつも私によりそってくれていること
ほとけさまは、
私の側にいらっしゃることを
みすずさんは知ってます。

「積もった雪」
上の雪 さむかろな  
つめたい月がさしていて
下の雪 重かろな   
何百人ものせていて
中の雪 さみしかろな  
空も地面もみえないで

みすずさんの結婚生活は
とても辛いものでした。
女性問題を繰りかえす
夫から童謡を書くことを禁止され、
作詞仲間との交流も禁止され、
一番の悲劇は夫から移った病気です。
みすずさんはこの病気を
内緒にしていました。
そしてこの病気を生まれた
子供に移してはいけないと、
週に4,5回従妹の元へ
幼い3歳になるふうちゃんを
抱えてやってきました。
その従妹のお話があります。
「共同浴場に一番風呂が
沸くころを見計らったように
きちんと時間を決めてみすずさんは
ふうちゃんを連れてきました。
私はまだ子供がおりませんので
ふうちゃんがとてもかわいくて、
いつもまだ綺麗なお湯の
お風呂に連れて行っては一緒に入りました。
共同風呂は深いので
こう抱きしめて入りました。
その間みすずさんは一緒に入らないで
待っていました。
雪の降る日も彼女は
自分の病気を隠して
私の所にふうちゃんを連れてやってきました」

 みすずさんの病気はひどくなる一方。
自分に残されたいのちを、
時間を全てふうちゃんのために使いたい。
しかしその想いもかないませんでした。
離婚を理由に旦那さまから
最後通告
「3月10日にふうちゃんを引き取りに行く」
という手紙が届いたのです。
ひきとりに来る前日の3月9日、
みすずさんは写真館で
自分の写真を撮りました。
そして帰り道、桜餅を買って帰ります。
夕食後、みすずさんはふうちゃんと
一緒にお風呂場に行き、
彼女は着物のままふうちゃんを
洗ってあげます。
湯船の中で游ぶふうちゃんを、
どんな思いで見つめていたのでしょうか?
一緒にお湯に入り母の肌のぬくもりを伝えたい、
でもそれはかなわないことでした。
お風呂上りに新しい下着と
かわいい寝巻を着せてあげて、
みすず、ふうちゃん、みすずさんのご両親の
4人で桜餅を食べました。
そしてみすずさんの寝顔を見てから
2階の自分の寝室へ入りました。
それはみすずさんの命の終わりの日でもありました。
遺書を書き、用意していたカルモチンを飲んだみすずさん。
翌朝心配したお母さんが
みすずさんを発見した寝室では
きれぎれの声で「死にたくなかったけれど・・・・・・」
でした。26歳、、あまりにも短い生涯でした。


最後に彼女の詩を2つ紹介します。
~みんな違ってみんないい~
「私と小鳥と鈴と」
私が両手をひろげても    
お空はちっとも飛べないが
飛べる小鳥は私のように   
地面を速くは走れない
私がからだをゆすっても   
きれいな音はでないけど
あの鳴る鈴は私のように   
たくさんな唄は知らないよ
鈴と小鳥と、それから私   
みんなちがってみんないい。

後年、ふうちゃんこと
ふさえさんがこう述懐しています。
「普通の母なら私を一緒に
連れて行ったでしょう。
いろいろわかってきて、
今は、そうか、母は私を殺すという
人殺しをしないで、
死んでくれたんだと思います。」

「御佛壇」
家にはお庭はないけれど  
お佛壇にはいつだって、
きれいな花が咲いてるの。 
それでうちじゅう明るいの
そしてやさしい佛さま   
それも私にくださるの
だけどこぼれた花びらを  
踏んだりしてはいけないの。
朝と晩とにおばあさま   
いつもお灯明あげるのよ
なかはすっかり黄金だから、
御殿のように かがやくの
朝と晩とに忘れずに    
私も御礼あげるのよ。
そしてそのとき思うのよ  
いちにち忘れていたことを。 
忘れていても、佛さま   
いつもみていてくださるの。 
だから私はこういうの   
「ありがと、ありがと 佛さま」
黄金の御殿のようだけど  
これは小さな御門なの。
いつも私がいい子なら   
いつか通ってゆけるのよ。



報恩感謝の日々になりますように。

歴史に学ぶ蓮如の道 を読んで

大谷暢順師がソクラテスの無知の知を引用された事、
それは図らずも、「知れるところを問う」が
実悟の聞書きであったように、
「無知の知」もプラトンの聞書きとして
後世の知れるところとなりました。

蓮如上人は日本人に多大な影響を与えましたが、
ソクラテスの場合はカイレフォン、クリトン、プラトン、
アリスティッポス、アンティステネス、
エウクレイデス、クセノポン、アルキビアデス、
クリティアス等々の弟子を輩出したことが挙げられます。

さて、「無知の知」と「知れるところを問う」
に関しての説明は著書に書かれていますが、
私はソクラテスと蓮如の思想にも共通するところが多々あると考えます。
まずソクラテスの最も重視した概念は

よい生き方としてのアレテー(αρετη、arete徳)です。

「人間としての善=徳」という意味で、
人間のアレテーは魂をよりよくすることであり、
刑罰もそのために有効だとします。

また、アレテーを実践する者の人生は幸福であるとも主張しています。
対して蓮如上人は出家しないで俗人のまま、
覚るのではなくて信仰するのだ
という在家佛教を民衆に決定的に位置付け、
「正定聚」と「滅度」という二つの利益を持ち、
それは信仰を持った後、
模範的な行いを現世で行う事を民衆に促すものでした。
それは徳を積み、善行を行う真宗信者教団を作り上げ

加賀の国で百年にわたる統治国家という
偉業にもつながったわけです。

ソクラテスは、自身の知への愛(フィロソフィア)と
「単に生きるのではなく、善く生きる」
意志を貫き票決に反して亡命するという不正を行なうよりも、
死と共に殉ずる道を選んだとされるなど
彼は徹底した思想に生きる人でした。

 対して蓮如上人は世を捨て山にこもるのでなく、
民衆と共に家族を育み世俗で布教されました。
その頃力をつけてきた商業者、
生産業者等の新興民衆の生き方を
八十五年の生涯を通じて精力的に教化し、
民衆を武士から守るための環濠都市、
寺内町を大阪、越前、西吉野、河内、
金沢に作り都市形成を行ったのです。
これは戦国時代に城として、城下町として登場する五十年以上前の話です。

ソクラテスの残した言葉はほかにもたくさんあります。
「よりよく生きる道を探し続けることが最高の人生を生きることだ。」

「本をよく読むことで自分を成長させていきなさい。
本は著者がとても苦労して身に付けたことを、たやすく手に入れさせてくれるのだ。良い本を読まない人は、字の読めない人と等しい。

「人間の美徳はすべてその実践と経験によっておのずと増え、強まるのである。」

「幸福になろうとするならば、節制と正義とが自己に備わるように
行動しなければならない。ねたみは魂の腐敗である。」

「魂の探求の無い生活は、人間にとって生きがいの無いものである。」

「生きるために食べよ、食べるために生きるな。」
どれもこれも心に染み入る言葉です。
これらは二千年以上前から
私たちは知れるところとして学んできたことです。
けれど人間は忘れやすく、疑いやすい性格が故に、
自分自身の言動にも、先人の智慧にも反応できているとは思えません、
同じ過ちを繰り返し、同じ場所をどうどうめぐりしているのでありますから。

シジフの神話のように・・・。
私達はどう考えても「知れるところ」を反芻し、
問いていかねばならないのです。