2017年04月02日(日) 08時43分01秒

赦された者として

テーマ:説教

 自らの破滅を感じ取りそれに囚われた人の醜い姿を、私たちはテレビなどを通じて見せられ続けています。ああはなりたくないものだなあと眺めつつ、なんでそんなことになっちゃうんだろうとぼんやり考える今日この頃です。

 

 誰だって破滅は恐ろしいと考えるものです。信仰者だってそれは同じことです。イエス様だって「御心ならばこの苦い盃を取り除けてください」と祈ったほどです。

 

 キリスト教信仰の奥義の一つは「実に、人は心で信じて義とされ、口で公に言い表して救われるのです」(ローマ10章10節)です。義とされることと救われることは同時に行われるわけではなく、段階を踏んでいることが解ります。

 

 信じるとは、自分が赦(ゆる)された者であることを信じることです。この「赦し」ですが条件や対価を求める「許す」とは真逆の「対価や条件を問わない、温情的な行い」を指します。つまり、この信仰は最終的にはそれぞれの甦りを約束します。そして、この甦りを「口で公に言い表」すことを通して私たちは救いに至ることができるわけです。多くの人々が困難や破滅に立ち向かっていきました。その原動力は、自分がここにいることの意味なのだということです。「善行の結果が救いを導く」ではなく「私たちの救われた確信が私たちの善行を導く」からだと信じるからです。だからこそ信仰の先達たちは、その破滅に立ち向かっていくことができたのでしょう。いや、立ち向かったというより立ち向かわざるを得なかったというべきでしょうか。それは、愛そのものに裏付けられていたからということなのでしょう。「六千人の命のビザ」で有名な杉原千畝は、「私に頼ってくる人々を見捨てるわけにはいかない。でなければ私は神に背く」と言っています。

 

 私が私であることは、私を今まで支えてきた全ての総称としての「神の意思」ということができるでしょうか。「神に背く」という言葉は実に「自己否定」としての意味にも聞こえてきます。赦された者として歩むことは、大切なことなのです。

 

 報酬を期待して善行を行うのなら、その報酬を得た時点で、善行ではなく仕事と呼ばれるでしょう。しかし、私たちが神様から託された私たちの存在理由はそういうものではありません。サービスとしての代替えが聞く労働者としての存在ではなく、神様の赦しに基づいた私たちらしさこそが大切なのだということです。だから、この受難節の期間に私たちは一体何を赦されているのかを感じ取らなければなりません。

 

 過去を恥じるのではなく、過去を問うのでもなく、また、未来を案じるのではなく、今、この場所での最善を行うことが私たちに赦されているのです。

 

 私たちの世界はこの数十年で大きく無信仰化してしまったようです。信仰さえ、対価を求める時代になってきました。その中では、過去を問いあげつらい、未来に責任を求めて、今なすべきことを見失っているようにも思えてきます。
 

 木造教会は今年度65周年を迎えます。そしてこの65年の歩みはいつもその時成すべきことをを忠実に成し遂げてきた積み重ねでもあったことを思い返したいと思います。この一年度もその時成すべきことに信仰を注ぎ、言い表し、歩み続けるものでありたいと願っています。

 

 皆様の歩みの上に、主の赦しと導きと祝福が豊かなありますようにお祈りします。

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