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2006年09月29日(金) 12時26分55秒

路傍伝道…石ころ伝道

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9月22日に書いた「町内会と教会」
に、「うらやましい」と言うコメントを有子さんとナベショーさんより頂きましたので、その続きを…。

教会って外から見たイメージに対してはなかなかケアできていないような気がします。私のところでも80名程の座席を持つ礼拝堂がありますが、これが週に一度しか使われていない実情は余りにも勿体ないなあと思うのです。で、どう使う事ができるかと考えてみるのですが、これが意外に思い浮かばないんですよ。

例えば、講演会やコンサートの会場として貸し出す事については、「礼拝堂は礼拝でだけつかうもの」という思いを持つ教会員さんもいます。また、もし貸し出すにして掃除や日程管理などといった業務に忙殺されてしまっては本末転倒です。そんなこんなで、挫折してしまいました。

更に言えば、長い教会の歴史の中で教会自体が周囲に誤解を与えている事もあります。特に、教会というのは礼拝時には、遠方から来る信徒さんも多いので、「素性もわからない人達が出入りをする得体の知れない建物」なんて思いになってしまうのは当然です。更に、そこに住む牧師が町内会に対して最初から改革ありきで臨んでしまうと、完全に浮いた存在になってしまいます。

私がこの教会に赴任したのは1999年でした。入居に際して教会のリフォームで来ていた業者さんが教会の前に20分弱の間駐車していたら警察に通報されたなんて事件がありました。町内会長さんと隣組の方々に引っ越しのご挨拶をして、外出する時にはちょっとご近所さんに声をかけたり、お土産やお裾分けを持っていくようになってしばらくしてから、教会に対しての疑問と不満が飛び出してきました。最初の3年はそれに対してお詫びし続けるような事態でした。

ご近所さんと私のお付き合いはそう言うところからのスタートでした。日曜日の朝…牧師にとっては一番忙しい時ですが、年に数度ある清掃活動等にはできる限り参加しました。顔を合わせれば必ず声をかける、近所で事件があれば即駆けつける、そして問われるまでもなく「あそこの教会の牧師です」と自己紹介…。聞かれた事には必ず答える、そして必ず遊びに来て下さいと誘う。教会の前を通りかかった人に対しても、できれば挨拶をする…。行きつけの居酒屋でも、飲食店でもその通りでしたから、時々そういうお店で「人生について」とか「キリスト教について」とか「宗教について」とか、果ては「政治について」なんて事まで質問されたりするようになっていました。

教会とその地域との関係は、教会を一戸の家に見立てて行うものだと思うようになりました。周囲の人にすれば、牧師は教会という大きな家庭で、牧師はその戸主です。近隣の方々はやはり、牧師を通して教会を見るのだと思います。牧師の地域に対する姿勢が、教会全体のイメージに繋がるようです。私達の教会は年末に餅つきをしてはご近所にご挨拶とともにお届けしています。そう言う中で、町内会館の管理を任せても良いと思って下さったのだと思います。

教会というのは、全く知らない人達にとっては、「善人の集まり」というイメージが先行します。しかし、現実問題として教会はそのイメージに沿えないし、沿おうとする意欲もない場合が少なくありません。そしてそれが知らず知らずに地域の共同体に対しての非礼と、行き違いを生む事になるのだろうと思います。ともすると「権利ばかりを求めている」と誤解をされてしまう場合も少なくないと思います。

無論、教会の牧師が地域の方々と交流するためには、教会の用事を相当犠牲にしなければならない事も確かです。そしてそれは教会の中では、あくまで牧師の個人的な裁量の範囲に限定されがちです。でも「教会に迷惑をかけない範囲でなら、ご近所付き合いも良いでしょう」とお許しが出るだけでは難しいと思います。

この辺りの夏祭りでは、市内の至る所に「幣束」がぶら下がります。しかし、「これは清められた場所を守るための結界ですから気分とかでぶら下げるものではありません。宗教の自由云々じゃなくて、宗教の専門家として申しますが、使い方が間違っています」と町内会で言ったら「そうなんだ…。掛ける時も危ないんだよな。じゃあ、止めましょう」といとも簡単に決まってしまいました。それから、この町内会だけ幣束がなくなりました。教会が求められる事って、教会の中と外では全く違うのです。

私も、伝道の方策に頭を悩ませます。高い講師料を掛けて有名な講師を迎えての特別伝道礼拝なんてものを企画することも大事かもしれません。で
、教会の前に立ち道行く人々に挨拶したり、無駄話に付き合ったりすることは効率が悪いかもしれませんが、私にはとても大事な事に思えるのです。周囲に理解を求めるのではなくて、周囲を理解する事が大切なのではないかと思うのです。
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2006年09月28日(木) 23時24分50秒

辺野古の事 続き

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先日ご紹介した平良夏芽牧師が釈放されたそうです。感謝を持ってご報告します。

ところで、先日の文章で、誤りがあったので、訂正をいたしますが、辺野古沖に海上ヘリ基地を建設する案は取り下げられ、現在ではキャンプ・シュワブという基地内に移設する案になったそうです。

でも、海から陸になってジュゴンが生活できるのだったら良いではないかという事を仰る方もいますが、そんなに生易しいものではないのです。

基地というのは危険や、治安の悪化という問題を持っています。騒音等もひどいと聞きますし、何より、誤射事件や軍機の墜落などといった事件が良く起こっています。また、劣化ウラン弾、核弾頭、生物化学兵器といった危険な兵器が保管されていることも問題です。そして何より、沖縄という唯一の地上戦を実際に体験し、戦争の苛烈さ、むごさを知った人達にとっては、とても大きな痛みを覚える施設であるという事です。

「基地はいらない」という彼らの思いは真実なのです。

以下に平良牧師のメッセージを掲載いたします。

不当逮捕に怒り、心配して下さった皆様へ
 9月25日午前9時55分の名護署による不当逮捕によって身柄を拘束されていた平良夏芽です。長い拘留を覚悟していたのですが、全国・全世界の皆様からの激しい抗議が功を奏したのでしょう。昨日(27日)午後1時に釈放されました。二日半の拘留でした。
 車に衝突した時に多少の傷は負いましたが、擦り傷・打ち身の程度ですでに回復しつつあります。疲労と断食で体重は3キロほど減りましたが良いダイエットになったと思っています。私は非常に元気です。
 検察は、処分保留という判断をしました。私に足かせをつけたつもりなのだと思います。しかし、私を含めた仲間たちは、このことで弱っていません。今後は、さらに激しい弾圧が待っていると思います。それでも負けるわけにはいかないのです。私たちが負けるということは、基地が建設され、そこから発進する軍隊によって多くの人々が殺されるということなのです。
 私たちは、人殺しに繋がる基地建設は絶対に止めなければならないと決意しております。
 今回問題になっているキャンプ・シュワブ内の文化財遺跡調査は、防衛庁主導のもので最終的には文化財を破壊し埋め立てることを前提とした調査です。私たちは、このような調査を認めず、文化庁主導の文化財を保護するための調査を求めているのです。基地建設に繋がるすべてのことは、止めなければなりません。海の上で止めてきたように、陸の上でも止めなければならないのです。名護署の警察官には、「あなた達が県民を守る覚悟をしない限り、今後、名護署は良心囚でいっぱいになるでしょう」と伝えてきました。
 今回の逮捕によって、私を非難する人もいます。しかし、その数をはるかに上回る人々が支持と連帯の挨拶を届けて下さいました。辺野古の闘いが、本当に多くの方々に支えられていることを改めて体感することができました。皆様の敏速な動きに、深く感謝申し上げます。檻の中での生活をわずかでも経験すると、ともすると卑屈になって、皆様に謝罪しなければならないという気持ちも湧いてきてしまうのですが謝罪はいたしません。謝罪すべきは名護署であり、基地建設を強行しようとする勢力だと信じるからです。
しかし、動いて下さった皆様には、深く頭を垂れて感謝をしたいと思います。ありがとうございました。今後とも、連帯をよろしくお願いいたします。
2006年9月28日
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平良 夏芽(タイラナツメ) 日本キリスト教団うふざと教会牧師
   〒901-1206 沖縄・南城市大里字仲間96?1
tel:098-945-3999 fax:098-944-3880 mail:taira@n.email.ne.jp
   URL http://www.asahi-net.or.jp/ ̄qg2n-tir/
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2006年09月25日(月) 21時34分00秒

辺野古のこと

テーマ:ブログ
辺野古という地名をご存知でしょうか?沖縄の名護市近郊、風光明媚な海岸地帯で、ジュゴンの住む海として知られているところです。ここに、普天間飛行場の移設による代替ヘリポートの移設案が押し進められようとしています。今、ここで、反対運動をしている沖縄の人たちの声を私達が聞く事が求められています。

日本には在日米軍が存在し、日本各地に基地を構えていますが、面積から考えますと、日本全体の基地の75パーセントが国土面積0.6パーセントを占めるに過ぎない沖縄に集中してるのです。そして、その基地を整理統合するという名目の許に、新しい基地を、ジュゴン生息地域の北限として有名な辺野古に建設されようとしています。

沖縄の人達は「基地はいらない。戦争はいらない」と、およそ900日も座り込みを続けています。これだけ長い間、非暴力反対運動が起こっている事は本土では知られていません。そして、今日、私達の大切な仲間で、この反対運動の中心的な存在である平良夏芽牧師が、逮捕されたというニュースが入ってきました。経緯は沖縄タイムスに掲載されていますので、ご覧下さい。

沖縄タイムス(関連記事)

辺野古の問題については、人気ブログの一つ「きっこのブログ」でも取り上げられていますので、ご一読ください。

きっこのブログ(関連記事)

平良夏芽牧師は沖縄のうふざと伝道所 の牧師です。温厚な人柄の持ち主であり、とても熱心に平和を求める人であり、2003年には、イラク戦争直前にイラク入りして募金、医薬品等を届けるといった活動をして来た方です。そして、この辺野古のヘリポート建設の反対運動に参加していました。

沖縄の人達は否応無しに、60年前に住んでいた島全体が戦場となり、銃弾や爆弾の雨の中で、その酷さ、惨めさを体験しました。友や家族を失い、戦後には日本国民でもなくアメリカ人でもない占領地の住民として扱われてきた人達です。彼らは戦争の何たるかを、実経験を持って知り、そしてそこからの結論として、戦争反対を訴えています。実際に7、80歳のお年寄りが毎日辺野古の海岸に通い座り込みを続けているのです。

以前、私に向かって「売国奴的」と表現した人がいましたが、日本の大切で美しい国土をアメリカに言われるがままにお金を払って譲り渡していく行為は「売国奴的」以前に、「譲国的」(?)ではないかと思うのですが…。「一心独立して一国独立す」…攻殻機動隊SAC2 というアニメの中での首相が言う言葉です。私達は国の何を勝ち取り、何を守り、何を伝えていこうとしているのでしょうか。

今、目の敵にされている日本国憲法。その前文を掲載します。

日本国民は、正当に選挙された国会における代表者を通じて行動し、われらとわれらの子孫のために、諸国民との協和による成果と、わが国全土にわたつて自由のもたらす恵沢を確保し、政府の行為によつて再び戦争の惨禍が起ることのないやうにすることを決意し、ここに主権が国民に存することを宣言し、この憲法を確定する。そもそも国政は、国民の厳粛な信託によるものてあつて、その権威は国民に由来し、その権力は国民の代表者がこれを行使し、その福利は国民がこれを享受する。これは人類普遍の原理であり、この憲法は、かかる原理に基くものである。われらは、これに反する一切の憲法、法令及び詔勅を排除する。

日本国民は、恒久の平和を念願し、人間相互の関係を支配する崇高な理想を深く自覚するのであつて、平和を愛する諸国民の公正と信義に信頼して、われらの安全と生存を保持しようと決意した。われらは、平和を維持し、専制と隷従、圧迫と偏狭を地上から永遠に除去しようと努めてゐる国際社会において、名誉ある地位を占めたいと思ふ。われらは、全世界の国民が、ひとしく恐怖と欠乏から免かれ、平和のうちに生存する権利を有することを確認する。

われらは、いづれの国家も、自国のことのみに専念して他国を無視してはならないのであつて、政治道徳の法則は、普遍的なものであり、この法則に従ふことは、自国の主権を維持し、他国と対等関係に立たうとする各国の責務であると信ずる。

日本国民は、国家の名誉にかけ、全力をあげてこの崇高な理想と目的を達成することを誓ふ。

戦後、この憲法に希望を置いて誇りを持って歩みだした時期が確かにありました。
私達は果たして、「全力をあげてこの崇高な理想と目的を達成」しようと努力して来たでしょうか?言葉だけで、楽をしてきたツケが今、このような結果に結びついたのではないかと思う時、私達は自分のなすべき事をしっかりと問い、見つめ、実行に移すことが求められているのではないかと思います。

平良牧師は、この事件を受けて、「抗議の断食に入る」と言っているとの事です。「平和とは命をかけて守るものである」…
何も敵と銃を構えてにらみ合う事が、平和を守る事ではないのではないでしょうか。平良牧師の一刻も早い釈放を求めるとともに、この「代替ヘリポート建設計画」が中止されるように求めます。

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2006年09月22日(金) 23時41分10秒

町内会と教会

テーマ:教会あれこれ
教会があるってこと…外部からの目で見ればあの建物の中はどんな人が住んで、どんな事をやっているんだろうか?って疑問に思っておられる方の方が多いんじゃないかと思います。「中で怪しげな修行や集会をやっているんじゃなかろうか?」「毎週日曜日に通ってくる人はどんな人で、どこからくるんだろう?」と思うはずです。私は、せめて教会の周囲に住んでいる人達に関心を持ってもらおう、できれば「教会がここにあって良かったなあ」って思って頂きたいものだと思って、日曜日の町内会の清掃活動などに参加したり、ご近所付き合いをやって来たのですが、最近やっと実現してきました。そして、教会は一体どんな資金繰りで運営されているのか、どんなシステムで牧師は教会に赴任するのか、更には「牧師の給料っていくらぐらい?」といったことを聞かれるようになりました。

実は、この4月から、町内会館の鍵の管理をする事になりました。何でも、若い夫婦はみんな共稼ぎで、鍵の管理など出来る訳もないそうで、頼み込まれてしまいました。もともと、町内会館からも遠くない事もあり、引き受ける事にしました。

それにしても町内会の役職は殆どが高齢の方で、私の前に管理人をやっていた人は90歳を超えておられるという事でしたので、私が地区の委員会なんかに顔を出すと、一番若いわけです。しかも、それが教会の牧師をやっているという事で、皆さん興味津々。いろんなお話をさせて頂きました。

夏、町内会館の駐車場を中心に毎年行っている夏祭りで、今年から模擬店とバザーを出店する事になりました。その時に町内会長さんが「教会にもバザーを出店して頂きたい」と声をかけて来て下さいました。

私「場所代はいくらくらいですか」

町内会長「いやいや頼んでるんだしいらないよ。儲けだってどうせ教会ってのは寄付に使うんだろうから、全部教会でとったらいいよ」

私「でも、宗教ですよ。問題になりませんか?いいんですか?」

町内会長「ああ、この町内会にはお宅の教会しかないんだから、それでいいんだよ」

こっちが心配になるくらい、ザックバランな依頼です。さて、教会員に相談しましたら、「ああ、いいですねぇ。儲けなんてなくてもいいからやりましょう」って事になりました。とりあえず利益は東ティモールの地震と、レイテ島の地滑りに送金する事に決定して、参加する事になり、当日は23000円余りの売り上げになりました。早速、町内会に報告です。

「いや、良かった良かった。教会さんが参加してくれて、盛り上がって良かったよ。その利益を東ティモールとレイテに寄付してくれるんだろ?この祭りに参加している町内会はたくさんあるけど、その売り上げを寄付するなんて、ウチだけだよ。市長に言って感謝状でも出してもらおう!」と大盛り上がり(^^)/

更に…、町内の育成会が「秋にもバザーをするんでしょう?良かったら教会で売って下さい」と、バザーの売れ残りを教会に寄付して下さいました。

後日の反省会でも、

「教会が地区にあるって、よく考えたら勿体ないよなあ。来年も夏祭りに参加してくれよ。」

「夏だけじゃなくてさ、どうせ町内の人達だってクリスマス祝っているんだし、町内会で教会のクリスマスに相乗りさせてもらってもいいんじゃない?」

「先生さ、一人暮らしの年寄りが沢山いてさ、そんな人達に、宗教抜きでなんか聞いて良かったなあって話はできないかい?」

などなど、いろんな声をかけて頂きました。

教会前で煙草を吹かしてたりすると、道を行き交う方々が声を掛けて下さいます。この地域に子供が少ない事もあり、息子が生まれたことを知ったお向かいさんは、「赤ちゃん抱かせて」と遊びに来て下さいました。やっと少しずつ、地域の隣人として教会が受け入れられて来たようです。

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2006年09月21日(木) 23時25分38秒

祈られたい

テーマ:ブログ
ナポレオンは自分が皇帝に即位する戴冠式の際、これまでローマ法王が行っていた戴冠式の前例を破り、ローマ法王から冠を取り上げ、自分で自分に戴冠したそうです。 周囲の人達がそれを「おかしい」と指摘できない程にナポレオンは大きな力を持っていたという事でしょう。

ところで、仕事というのは自分に対して行う行為ではなくて、他人に対して行う行為だと思います。例えば、牧師の仕事で言えば、自分に洗礼を授けたり、自分の結婚式を行うわけにはいかないのは自明の理です。しかし、では家族はどうでしょう?

6月のある日、妻が早期破水で入院、帝王切開で子供を取り上げる事になりました。手術日まで中2日ありましたので、その間に牧師らしい事が妻に対して出来たかと言えば、何も出来ませんでした。「祈りましょう」って事も言えない訳です。それは私自身が、妻同様当事者だからだったと思います。結局どうしようもなくなって、知り合いの牧師に頼み込みました。

「先生、一人の教会員として祈って頂けますか?」

その先生は、快く飛んで来て下さいました。手術前の妻を囲み、その先生に祈って頂きました。

さて、今日はそのお礼も兼ねて、その先生のところに息子を連れてご挨拶に行ってきました。とても喜んで下さいましたが、帰り間際、

「せっかくだから、今から、幼児祝福式をしようよ」とその先生。

先生夫妻と私達夫婦が息子を囲み、その先生にまた祈って頂きました。大感激です。何かやっぱり自分の息子の事を牧師として祈るという事の違和感を感じてしまうのです。

牧師だって祈ってほしい時もあります。しかし、牧師は牧師であるが故に、その声を出す事が出来ない場合が少なくありません。だからこそ、牧師同士も繋がり合い、祈り合い支える事が大事だと思いました。

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2006年09月20日(水) 23時08分31秒

私という私

テーマ:ブログ
子育てに、相次ぐ訪問者…最近、運動と睡眠が不足気味です。そこに持ってきて夏の疲れは予想以上に尾を引いて、もうこの一ヶ月喘息で、なかなか体力回復の切っ掛けがつかめないというデススパイラル状態…。

で、こんな自体を打破しようと思っていた時に誕生日を迎え、妻に「何かプレゼントに買ってあげる」と言われました。突然言われるとなかなか出てきません。いろいろ考えた挙句に、じゃあ、健康器具でも買おうかという事で買う事になったのが、「ロデオボーイ」という機械。乗馬運動を再現し、座っているだけでおなか周りの運動が効果的にできるという謳い文句が魅力的…。

で、早速買ってみました。乗ってみるとこれがなかなか運動になります。体が少し汗ばむ感じ…。視線を固定し、姿勢を保とうとするだけで結構な運動になっています。15分乗るのも結構大変でした。

私と妻と二人だけで使うのは勿体ないという事で、玄関ホールの隅においておきましたら、早速、物好きな何人かの教会員が乗ってみたいと試していました。なかなか評判もよく、「毎週教会に来て乗ってたらスマートになれるかな?」なんて淡い期待を抱いたり…。「教会に行って痩せたよと評判が立てば、もっと来る人が増えるかも?」とある人が言うと、別の人が「教会って痩せる程大変なところだって言われちゃうかもよ」…それは困りますね。

それにしても、教会って一体どういうところなのでしょう?楽しいところ?、それとも大変なところ?、人生に役立つところ?ボランティア活動をするところ?…。まあ、これら全ては当てはまっていますが、その一方で「宗教というのは、人生に困った人が行くところ」って常識は日本ではまだまだ根強く残っています。しかし、現実には、教会や生活を通じてボランティア的な活動をする事が教会員の生活には少なからずあります。そしてそれは自分の実存としっかりと結びついています。

政治の世界でもボランティアの必要性が言われて久しくなりますが、このボランティアも宗教的な背景があるかないかで、大きく意味合いが違ってくると思います。「誰にも強制されず、自発的に行い、報酬がないもの」がボランティアの定義ではないかと思うのですが、しかし、その一方でボランティアを強制しようと言う動きも最近では盛んです。学校の単位などにボランティアを課したり、刑罰としてボランティアを課す動きが出てきました。「罰として3日間のボランティア活動を命ず」…これってもはやボランティアとは言わないと思います。このような動きが盛んになってくれば、それは残念ながらボランティアとは言えなくなってくると思います。

先日聞いた話ですが、老人ホームにボランティアに入った人がクビになったそうです。何故なら、お手伝いのはずのボランティアが職員や入所者に指図をし、威張っちゃうから…。おかしいですけど、それも本当の話。そのボランティアさんは、自分が職場では高い地位にいた事を忘れる事が出来ないのでしょうね。

信仰というのは、「自分という人間に対して謙虚になる」ための思想ともいう事が出来ます。自分を客観視する視点を、神の立場に求める事は有効なのです。私達は、目の前に起こっている物事に対して、無関係を決め込む事も出来るし、お金で解決する事も出来るでしょう。でも、信仰ではそこに「その人らしさ」を求め、説明を迫るのです。結婚なんて正にそう。「この出会いは必然だ」って思うからこそ、結婚するんだと思いますし、結婚生活が長くなればなるほど、その思いは強められる訳で…。恨むにせよ感謝するにせよ神の存在は人間を人間足らしめるのだと思います。

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2006年09月17日(日) 18時54分24秒

結婚式

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今日は午後から結婚式の司式でした。近所のレストランがレストランウェディングを企画しており、「本物の牧師を!!」って事で頼まれたのです。最近は、「他人とは違うものを」という求めも出てきている様で、このようなレストランウェディングなどが少しずつ増えている様ですね。

今回の結婚式では、レストランの一室に十字架とオルガンを置いて、真ん中にバージンロードを敷いて…うんうん…なかなかいい雰囲気です。新郎さんも新婦さんもレゲエ系の人かな?ピアスなんかつけておられましたが、とても素敵なカップルでした。この結婚式では入場も退場もゴスペルソングで行われました。表紙に会わせて歩こうとするので、歩きづらそうかなとか思いましたが、こういう時には拍子なんて無視してゆっくり歩くと具合がいいものです。

キリスト教の結婚式というと、これも定番の様に思われているものに、「誓約のキス」なるものがあります。私と妻の結婚式では、「キスはどうします?」なんて聞かれて、二人で悩んだ末に、「やめときます」と答えてしまいましたが、今回の場合、業者さんから「キスは必ずさせて下さい。お二人もしたいと仰っていますので…」ということでした。さて、実際にその時になりましたら、さすがに二人ともモジモジ照れておられました。目の前でキスされる訳ですから、私も照れちゃいましたが…(^^;。とっても幸せそうな結婚式でしたよ。

結婚式の司式の場合、結婚式を終えてしまえばそれっきりになってしまう場合がほとんどです。「便りがないのは良い知らせ」と思いたいのですが、そう言う場合だけではないだろう事は薄々予想がついています。でも本当は、もっと教会を活用してくれれば良いと思います。そのための司式者なのですから…。

夫婦になれば、様々な事が起こります。その時に、自分の結婚式をしてくれた人の存在を思い出さない手は無いと思います。それは神前式であろうと人前式であろうとキリスト教式であろうと一緒の事だと思います。私だって、子供が1500グラムちょっとで生まれた時にはさすがに、先輩牧師に相談しましたもの…。こういう繋がりだって人生の大切な宝なのですから。

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2006年09月14日(木) 23時32分40秒

本物?偽物?

テーマ:教会あれこれ
一月程前、ある人にこんなことを言われました。

「ひょっとして…牧師さんですか?

「そうですが…見えませんか…」

「イエイエ」とその人は否定して、しかしその先…

「今まで牧師と言われる人とはたくさん出会ったけど…」と一言。

それってどういう事でしょう?今までその人が出会って来た牧師とは大分イメージが違うのでしょうか(^^;

今日、結婚式の司式をしてくれという依頼を受けました。あるレストランで、レストランウェディングをやる事になって、それでぜひ「本物の牧師」に司式をしてほしいという事でした。

ところで、この「ホンモノ」という言葉の響き、結構複雑なものがあります。今から十年程前に、結婚式業者が建てた教会の広告が新聞に入っていました。この広告に、「本物の教会、本場の雰囲気での結婚式」というフレーズがありました。読んでみますと、ざっとこんな事が書いてありました。

1)教会の建物は建材から調度品に至るまで、全てキリスト教の本場アメリカから取り寄せました。本物の教会が持つ雰囲気を味わって下さい。

2)毎週日曜日に行われる礼拝は、アメリカから来た宣教師たちによって、全て英語で行われています。

なんだって??(-""-;)

「アメリカがキリスト教の本場で、本物の礼拝は英語で行われる」って…。イエスはユダヤに生まれ、聖書は旧約聖書がヘブライ語、新約聖書はギリシャ語で書かれています。宗教改革者マルティン・ルターが翻訳した聖書はドイツ語です。大体、アメリカ合衆国という国が成立する遥か昔からキリスト教は成立してるのですが…。突っ込みどころは満載です。(^^;

まあ、そんな事は置いといて、「世間一般の皆さんが考える本物の牧師」「教会関係者が考える本物の牧師」は全く違う事に気がつきました。

世間一般が考える牧師は、多分、片言の日本語をしゃべり、心が広い外国人というイメージ。それに対して、教会関係者が考える牧師とは、「神学に精通し、教会の運営(これを牧会といいます)するのに相応しいと資格が与えられ、その職に任じられた人の事」を言います。客観的に見れば、後者の方が本物だという風に認定される訳ですが、しかしその一方で映画などで牧師=外国人という牧師像を自分の中に育てた人達にとっては、私の様な牧師は、嘘っぽく見えるのでしょう。さて、果たして本物っぽい偽物と、偽物っぽい本物…牧師は一体どっちが好まれるのでしょうか。ご意見募集します(^^)/

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2006年09月12日(火) 23時15分39秒

江戸時代の記録

テーマ:埋もれた歴史
江戸時代の関所というのは、現在の入国管理局みたいな働きをしていた場所です。関所の管理は非常に厳しく行われたそうで、手形を持たず「関所を避ける者」の事を「関所破り」は捕まれば磔(はりつけ)、捕まって吟味中に牢屋で死んだ者でも、塩漬けにされ刑場で磔にされるほど重い罪だったそうです。(猿ヶ京関所資料館HPより)

しかしながら、この狭い日本を70カ所程の関所で区切っていたそうですし、山に入ったりすると、柵なんかある訳もなく、藩境もわからなくなりますから、結構ひょいひょいと出入りしていた事は想像に難くありません。さて、当時の関所の中で最も有名な関所の一つが箱根関ですが、この箱根関に関所破りの記録があるそうで、その数を聞いてびっくりしました。箱根関所250年あまりの歴史の中で、一体何人が処刑されたと思います?

5件6人しかないんだそうです。その理由は「藪入り」という温情措置。悪意や問題の無い人達が捕まった場合は未遂犯として扱い、関所破りとして扱わず「藪入り」…つまり道に迷っただけ、という解釈で、小田原藩の藩境からの追放処分で済ませていたとのことです。

江戸時代のもう一つの話ですが、「三行半」というのはご存知でしょうか?離婚状の事をこう呼んだ訳ですがなぜ、この「三行半」という呼び名が定着したかについての理由の一つは当時は3行半の手紙が離婚上だという理解が成り立っていたからです。江戸時代など、文字の読み書きを出来る人の方が少ない時代にあっては、離婚状を出せというのは酷な話でした。…で、三行半の線が引っ張ってあるだけの紙でも、離婚状として通用していたのです。

厳しいと言われる聖書の世界でもいろいろな戒律(これを律法といいます)が定めされていますが、現実にはその様な厳しさは追求されなかったようだという事が言われ始めています。

姦通の罪でイエスの前に引き出された女に対し「姦通の罪は石打による死刑ですよね」騒ぐ群衆たちに、「あなたたちの中で罪を犯したことのない者が、まず、この女に石を投げなさい。」と呼び掛けたイエスの呼び掛けは、現代日本に住む私達が直面している大きな問題への問いではないかと思います。

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2006年09月09日(土) 23時28分52秒

子育てとママゴト

テーマ:教会あれこれ
私の教会では、月に一度「CS土曜学校」というのを行っています。大きな教会ですと、毎日曜日に子供用の集会などもしているところは多いのですが、私のところでは、月に一回土曜日に実施するのが今のところ精一杯です。

今は、三人の女の子が中心やってきています。学校でも同級生のこの三人娘。…一人が弟を連れてきていますので、大体この4名で来ています。で、今日はその「CS土曜学校」の日でした。8月はお休みだったので、久しぶりでした。

さて、彼女たち、我家に生まれた息子に興味津々です。4年生ぐらいにもなると身近に赤ちゃんがいないのだそうです。…で、我家の方針としては、その子たちには出来るだけ赤ちゃんというものを見せてやろうということにしました。NICU(乳児集中治療室)に入院している時にも、面会に連れて行ったりしていたので、私が出張でいなかった間に、連れ立って見に来たそうです。

ということで、今日のお楽しみは、「赤ちゃんの世話をやってみよう!」という事にしました。まず、抱っこの仕方を教えます。

「そうそう、この子はまだ首がグラグラするから頭をね、肘の内側に乗せて…そうそう、上手上手」一度覚えたら、彼らは怖さを知りません。重たくなってくると友達にバトンタッチ…とても上手に抱っこしていました。

「じゃあ、ミルクを飲ませてみたい人は?」というと三人とも勢いよく手を上げます。

「う~!!じゃあ、じゃん拳ね」と真剣勝負で三人の順番が決まりました。

自信がないのやら、友達に気を使っているのやら、ちょっと飲ませると即交代…これでは、息子もたまったもんじゃなかったでしょう。でも、息子の顔を見ていると結構ご機嫌。若い(!?)お姉さんたちに構ってもらったからでしょうか?(;^_^A

オムツ換えはさすがに怯んでおりましたが、沐浴も彼らの目の前でしてみせる事にしました。「へ~、赤ちゃんってこうやってお風呂に入るんだ~」と覗き込んでおりましたよ。

一人の子は末っ子だそうで、赤ちゃんを見るのも抱くのも初めてと言ってましたが、一度抱かせたら、相当に嬉しかったらしく、息子が彼女の胸でウトウトした時にはとても誇らしげな顔になっていました。

そう言えば、いつの時代からか、「子守り」が子供の「お手伝い」の中から姿を消しましたね。私は、「小さい子供の面倒を見るのは大きい子の務めだ」と思い込彼らしたが、それって、「お手伝いとしての子守り」をさせられていたからこそ形成された概念であるように思います。

彼女たちは、今はママゴトのようにして我が子と遊んでいます。でも、それが彼女たちの経験という大きな宝になるのだと思います。

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