箸墓古墳―モモソ姫の場合
箸墓古墳で検索すれば、「日本書記」に出てくるお話がどこにでも引用されている。
「日本書紀」の内容を学者がそのまま引用せざるをえないのは今に至るまで研究が進んでいないせいなのか。
しかも憤飯ものの卑弥呼の墓として、いまだにぶり返しついてまわる。
「暴かれた古代史」の世界感が根底になければ説明できないものである。
ゆえにオカルトまがいのお告げやら、蛇の化身の記述やらがそのまままかり通っている古代史の現状である。
モモソ姫が三輪山の社の大田タネコの息子と結婚しました。男は姫が孕んだので安心して自分の素姓を打ち明けたのです。…・・・大田タネコは大物主の子孫というので当然ニギハヤヒの子孫と思って喜んで結婚したのです。ところが、大田タネコは何と、あろうことか出雲のシラギ崇拝教の男であったのです。
タネコの大田(おうた)とは出雲の「意宇だ」ということで、俺は出雲の大田(意宇だ)であったのです。
(『暴かれた古代史』、166~167頁)
モモソ姫が大田タネコの息子の子供を宿し、堕ろそうとして死んでしまったとは、三輪山の神主である大田タネコにしてみれば「俺の孫(息子の子)を生みたくないために箸で突いて堕ろそうとして死んだ」などとは何とも恥さらしなことです。
モモソ姫の墓が作られ、しかも箸で堕胎しようとして死んだ姫の墓が「箸墓」とあだ名されて評判にされ、大田タネコにしてみれば穴があったら入りたい程の恥話です。
それを打ち消すためにモモソ姫の墓を壊そうと考えてモモソ姫の墓に自分(タネコ)の墓を、最初は隣接してそのうち上手にかぶせて造営した、と推定されます。
箸墓というといかにもモモソ姫の墓のように思えますが、箸墓古墳から、吉備地方(岡山県とその周辺)で発達した葬送用具の特殊器台形土器、特殊器台形埴輪、などが埋葬されておりモモソ姫の墓に吉備地方のものを埋葬したとは思えないのでモモソ姫の古墳ではないと思います。
『日本書記』に「お前は私に恥をかかせた。今度は私がお前に恥ずかしいめをさせよう」とあります。墓が壊される事ほど恥さらしな事はありません。モモソ姫の墓を壊してモモソ姫に恥をかかせた事を意味します。
さらに『日本書記』にはこの墓は昼は人が造り夜は神が作ったとあります。
昼とは最初はモモソ姫の墓であったのを、夜つまりタネコがモモソ姫の墓にかぶせて墓を造り、墓が二重に造られている事を暗示しています。
タネコは、恥を隠すつもりでモモソ姫の墓の上に自分のどでかい墓を造って権力を誇示したのです。
その結果モモソ姫の墓は壊されてなくなったのですが、事情をよく知っている世間の人々がますますモモソ姫に同情していつまでも「箸墓」と呼び、いつしか箸墓古墳というようになって、大田タネコの墓であることが忘れられてしまい、モモソ姫に古墳が取られたようなかたちになってしまったと推定されます。
(中略)
『日本書記』に古墳について由緒や築造のようすが詳しく書かれている事は他の古墳では見られないことから意味深長です。(『暴かれた古代史』、178~180頁)
大田タネコの墓と出てきたが、大田タネコの墓があるとはいままで聞いたこともなかった。
神官である大田タネコが天皇以上の権力をもっていたとは、現代の学者はたぶん信じていないので「記紀」にないことは最初から考えないことにしているのだろうか。
シラギのイソタケルを祀って、古墳を造れるほどの天皇以上の一大勢力と権力を握っていたのはシラギ神宗教の蘇我一族である。
大田タネコはシラギ神イソタケルの末裔である。
その後、それまで半島を通じて大陸の文明が輸入されていたものが、隋唐から仏教を直接輸入するようになるとシラギのイソタケル信仰は冷めてゆくことになる。
それと「蘇我入鹿の暗殺」事件がおき、蘇我一族の権力が失墜していった。
オオクニヌシが三輪山に祀られたのも、そのシラギ神が失墜したからで、イソタケルを本名の少名彦命(スクナヒコノミコト)に戻し祀りつづけ、主神に代わるものとして、オオクニヌシに切りかえたのだ。
大物主神(ニギハヤヒの別名)をイソタケルとして三輪山の祭神にしていたのを今度は、大物主神とはオオクニヌシである、としてシラギ神から出雲神にすり替え、人々をあざむき居座ることに成功した。
オオクニヌシは、スサノオがシラギの女に産ませた子供である。
イソタケルは、オオクニヌシがシラギの女に産ませた子供である。
モモソ姫の堕胎死後、墓はつくられたが、様子を知るものは死因を強調して「箸墓」と呼んだ。
ヒトの噂に業を煮やした大田タネコが墓を壊し自分の古墳を造ったが、それでも人々は「箸墓古墳」と呼びつづけた。
民間の人々の気持ちの方がいかに純粋か。
現代は卑弥呼の邪馬台国に乗っ取られようとしているのだろうか。◆
写真がいっぱいでている―参考;
箸墓古墳 歴史倶楽部第76回例会(2003年)報告書