聖霊降臨礼拝宣教 Ⅰテモテ4章6-16節
2026/5/24
イエス・キリストにより、聖霊を受けて新生のいのちに与った私たちも、今置かれているそのところで、聖霊の力によって主の御救いを証しする者とされまいりましょう。
本日は先ほど読んでいただいたテモテへの手紙4章より、御言葉を聞いていきます。
この箇所には「キリスト・イエスの立派な奉仕者」と小見出しがつけられておりますけれども、この「立派な奉仕者になる」という言葉には留意する必要があります。なぜなら、場合によっては「立派な奉仕者」というイメージ、その固定観念が、本当に大切にされるべきことを後回しにすることもあるからです。最も大切なのは感謝と喜び、愛から生じる行動です。それは世の中が有能な人、社会経験の豊富な人材を求めることとは異なり、先々週読みましたように、誠実でキリスト・イエスに倣う品性を備えた人を神は求めておられるのです。
それに反し、4章の始めのところでは、「終わりの時には、自己中心で身勝手な教えを語る偽預言者や偽善者が教会の中に入りこんで、信徒たちを惑わし、信仰から脱落する者もいる」と「聖霊がこのことを明確に告げておられる」とパウロは警告しています。
それは如何にも常識的であるかのように決めつけ、大言壮語し、禁欲的であるかのようで実は支配的な偽預言者たちであったのです。
しかし、正しい信仰を持ち、真理を認識した人たちは、神への感謝とともに、本日のところにありますように「神の言葉と祈り」をもって生き働き、「聖なるものとされる」(5節)と述べます。
6節以降のところで述べられているように、その人は「立派な奉仕者になる」基本的な条件、すなわち「信仰の言葉と守ってきた善い教えの言葉とに養われる人」こそ、キリスト・イエスの立派な奉仕者となる人だということです。
「俗悪で愚にもつかない作り話しは避けよ」とありますが。今日の世界はありとあらゆる情報が指先1つで流れ込んできますけれども、中には信仰をかく乱するようなものもあります。どうやって見分け、判断し、作り話や偽ものを退ければよいのでしょうか。
パウロは「信心のために自分を鍛えなさい」と言います。
この年若い指導者テモテもそういった悪しき働きに疲れ、自分の弱さを嘆いていたのです。
まあ、普通自分を鍛えるというと、ジョギングやトレーニングなど何か運動することがまず浮かんでくるのではないでしょうか。パウロはそれも多少は役に立つと言っていますが、体が特に不調な時はいつもより気力まで弱り気味になることもあるのではないでしょうか。けれども聖書にはこのようにあります。「若者も倦み、疲れ、勇士もつまずき倒れようが、主に望みをおく人は新たな力を得、鷲のように翼を張って上る。走っても弱ることなく、歩いても疲れない」(イザヤ書40章)。
それは日頃から信心のために神の言葉に親しみ、祈り続ける人。その人は神に信頼し、望みを置き、神の時を待ち望む人です。
パウロはそのような信心が、「この世と来るべき世での命を約束するので、すべての点で益となる」と教えます。この主の恵みは、何ものにも替えることはできません。であるからこそ、信心のために日頃から自分を霊的に鍛えていく必要があります。
パウロは10節で次のように語ります。「信心のために私たちが労苦し、奮闘するのは、救い主である生ける神に希望を置いているからです」。
「救い主である生ける神に希望を置いて生きる」。私たちが持つべき忍耐は単なる我慢ではありません。この救い主である生ける神に希望があるからです。
先日、ある方からお母さまのことで課題を抱えている相談を受けました。そこで、お母さまのお名前を具体的に教えて頂き、そのお名前を主の前に出し、その方と共に執り成しのお祈りを主に捧げました。その数時間後その方から連絡がありました。「先ほど、母のことでお祈りしていただきましたが、その課題についての具体的な解決が示されました。感謝です」という趣旨でした。それを伺いまして、今日も主は生きてお働きくださったと確信し、主のみ名をほめたたえ、私も感謝の思いでいっぱいになりました。
教会では、祈祷会や早天祈祷会が毎週行われ、そこで聖書のみ言を開き、教会のこと、教会員とご家族のこと、地域や社会、世の中のことを覚えて執り成し、祈る時を守っています。様々な課題を具体的に祈る。祈りに覚える方の名前を具体的に挙げて祈ることがとても大事です。救い主である神に2人、又は3人と心を合わせて祈ることは、主が共におられる信心を呼び覚まし希望が与えられます。そればかりか、生きてお働きくださる主の証しを私たちはどれ程聞いてきたことでしょう。大きな希望であります。お時間の確保できる方はぜひ祈り会へいらして下さい。もちろん礼拝後の例会や歓談の場を活かして共に神の言葉と祈りの時をもっていただけると幸いです。
さて、テモテはまだ年若い牧会者であり、長老でありました。パウロはそんなテモテに次のように言います。12-13節「あなたは、年が若いということで、だれからも軽んじられてはなりません。むしろ、言葉、行動、愛、信仰、純潔の点で、信じる人々の模範となりなさい。わたしが行くときまで、聖書の朗読と勧めと教えに専念しなさい」。
年が若いということは確かに人生経験が不足しているかも知れません。しかし人生経験が長ければ良いかというと、そういうものではありません。くどいようですが、重要なのは「神の言葉と祈り」に基づく信心です。たとえ年が若くても、信仰によってここにあります諸々の事柄を心に留め祈り、キリストを信じる人々の模範となるように努めることが大切なのです。
かく言う私自身は、言葉と行動、愛、信仰、純潔のすべての模範になりなさいという教えを前にして、自分の欠けたる面、至らない面があることを認めざるを得ません。ただ、気づきを与えられたそのところから、主の憐みとゆるしによって神の前に立ち返り、主の霊、聖霊の導きのもと古い自分を捨て、新しい生き方へと歩み出す毎日です。
週報の内側の左上の今週の御言としてガラテヤ5章22‐23節を記しました。「霊の結ぶ実は愛であり、喜び、平和、寛容、親切、善意、誠実、柔和、節制です」。聖霊御自身がわたしの内、あなたの内に共におられるなら、聖霊はこのようにゆたかな善き実を結ぶように働きかけて下さっています。
今日の4章の始めのこのところに「霊は明確に告げておられます」とパウロが述べているように、聖霊のお働きこそが、私たちに愛、喜び、平安といった諸々の善き実を結ばせ、「キリスト・イエスの立派な奉仕者」として、お用いになるのです。それは教会のみならず、家庭、仕事、様々な社会生活に至る、生の全領域において福音を持ち運ぶキリストにある奉仕者としてくださるのです。
パウロは14節のところで、「あなたの内にある恵みの賜物を軽んじてはなりません」と言いました。それは神のご計画のために皆さまお一人おひとりは、何らかの賜物を神から授っておられます。それは聖霊のお働きによって与えられたものです。聖霊によってイエス・キリストを救い主として信じ公に主を告白し救われた一人ひとりは、神のご計画によって召されたのであり、神の目的のために聖霊の恵みの賜物を授かっているのです。どうか、私たち一人ひとりに授けられているこの恵みの賜物を主に祈り求めてください。
本日は、「恵みの賜物」と題し、キリストの立派な奉仕者についても、勧めの言葉を聞いてきました。
私たちの教会、バプテストの諸教会は協働牧会、相互牧会を掲げてきております。すべてのキリストにある信徒、聖霊によって救われた信徒はみな神の賜物を授けられているという信仰に立っています。共にみ言を読み、共にみ言に養われ、神と人とに仕え合い、互いに祈り、とりなし合う私たち奉仕者とされてまいりましょう。そこに、主はこのうえない喜びを与え、救い主である生ける神に希望があることを私たちに示してくださいます。主の御名を讃美し、感謝します。
台北の野花