師サリバンとヘレンケラー女史ー生い立ちとその業績散見ー(下) | 聾史を探る(旧)

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聾歴史を探る-サリバン下



師サリバンとヘレンケラー女史

=生立とその業績散見= (下)

秋田県立盲唖学校長 中山 源吉


その日は、朝から太陽は雲に覆われて、時々、夕立がありましたが、やがて、耀々と輝いて太陽が面を現しました。

私は再び繰り返して「愛と云うのはこの事ですか?」と尋ねました。

先生は答えて「愛は太陽が出てくる前に、空にあった雲のようなものです。」と言いつつ、更に説明してあなたは雲に触れることはできないけれど、雨には触れることができます。そして烈日が照り輝いた後に雨の降る時は地上の草木がどれ程、喜ぶかと云う事をご承知でしょう。愛と申すものも貴嬢が手に触れてみる事ができませんが、それが全ての物に注ぐ時はそのいかに貴きものであるかを了解なさるでしょう。「愛がなければ、幸福はありません。遊んでも面白くないでしょう。」と仰るのでした。


まだ、私には愛の意味が充分には解りませんでした。けれど、いつとはなしに彷彿として自分の心と他人の心との間に目に見えない関係連絡があるものだと云うことを感じるようになりました。


かくして、教育10年の歳月は流れた。美しいヘレンはまさに花に優る乙女と成長していた。それに加えて優秀な頭脳、生まれつきの負けず嫌いから大いに刻苦精励、英語はもちろんのこと、フランス語、ドイツ語、ギリシャ語、ラテン語の語5ヶ国語を修め、歴史、地理、天文、地文、数学、物理、動植物等の学をことごとく修めて、いよいよケンブリッジ女子大学に入学、目明きと競争してみようとの声明をさえ発して世間を騒がした。更に進んで程度が一番高いと言われているラドクリフ大学に学び、遂に宿望のマスターオブ・アーツを獲得した。


当時の意気、鼻息当たるべからざるものがあった。しかし、その蔭にサリバンの苦心を忘れてはならない。


サリバンは絶えず、ヘレンの傍に座って、一々受け持ち教師の講義を通訳する。自習時間における彼女の苦労はまた大したものであった。点字に書いていないものは、何から何までヘレンと一緒に勉強していかねばならない字引を引く。百科事典を漁る。


ケンブリッジの校長は追懐して

「実に忍びない難行苦行だ。実に尊い愛の奉仕だ」

と当時のサリバン嬢を称えている。


皆が寝静まっても、二人だけは起きていて、明日の学科の準備、布団の上で針金を持って三角を作り、四角を並べ、線を張り、弧を描きなどして幾何の予習をしたという。


大学教授の百万篇の説明、細解も、大学生ヘレンにとっては付添いサリバン嬢の通訳なくしては一言も一句も理解することができなかった。


ヘレン・ケラーの美しい顔が世界の大新聞に載って、稀代の偉人、奇跡の存在として賛辞が浴びせられた。ヘレン・ケラーはサリバンと共に大歓声の内に迎えられた。


大学生活4年、骨を削る精励勉学、疲労を慰する暇さえつくらず、直ちに講演に原稿に面会に寸暇なく、更に世の不幸なる者の救済に乗り出し社会事業家としての生活が始められたのである。


報酬、寄付金の莫大なものがあったが、師弟揃って無欲恬淡、その場その場できれいさっぱりと愛育運動に投じ、サリバン女史の労をねぎらい、5,000ドルの成業費として贈られた時も身に一銭の貯えなく、そのまま米国盲人協会に寄付してしまった。盲聾救済資金募集に、米国全土を遊説して20,000ドルを得た。両女史の救済事業の数々は枚挙にいとまがない。


諸所の大学からは学位が贈られ、現在、ヘレン・ケラー女史は二大学の博士号を得て、サリバン女史には人道博士の称号を贈られている。


おしいかな。昨年、日本訪問を企画し、その準備にとりかかろうとした際、サリバン女史の健康頓に衰え、眼も幼時のように見えなくなってしまい、ヘレン・ケラーの必死の看病もその甲斐なく、1936年10月20日、遂に帰らぬ客となってしまった。


御来訪中のヘレン・ケラー女史の御胸中御察しして、なお余りあることである。


(写真はヘレン・ケラー女史)


【秋田魁新報 昭和12年6月12日 朝刊2面】より引用