師サリバンとヘレンケラー女史ー生い立ちとその業績散見ー(上) | 聾史を探る(旧)

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聾歴史を探る-師サリバン上

師サリバンとヘレンケラー女史

-生い立ちとその業績散見-(上)


秋田県立盲唖学校長 中山 源吉


ヘレンケラーは1880年6月27日、アメリカ合衆国アラバマ州タスカンビアで至極健康な正常児として脈々の声をあげた。


後妻の長女としてのヘレンケラーは、特別両親に愛されて育っていった。周囲近傍から羨まれたほど、幸福の境遇であった。しかし、その幸福はいつまでも続かなかった。生後1年半にして熱病に襲われ、重体に陥り、殆ど快癒の見込みさえつかぬ有り様となってしまった。両親の悲観はいかばかりだったでしょう。

医者に見放されたヘレンの容態は、両親の厚き看病と祈りによって不思議にも快癒した。しかしながら、光と音の世界からは永遠に遮断され、暗黒と沈黙の塔に等しき存在となってしまった。


母は読書好きであった。偶然、ディケンスのアメリカ物語を読んで、ローラ・ブリッジマンの盲目で唖であったものが高等の教育を受けた話を読み発奮していたものだった。


病気が治ってからのヘレンはしばらくも母の膝を離れることがなかった。外へ歩く時でも母の裾にまつはりついて一緒に行くという有り様。ついつい手探りで物の形や運動の有り様を知るようになったが、自分の意思を通じることができませんでした。自分の意思を通ずることの必要になってからは自然に手真似をするようになった。


首を横に振るのは「否」、縦に振るのは「左様」ということ、引っ張るのは「いらっしゃい」、押すのは「ここにいらっしゃい」といった単純なものから、パンを欲する時はかじる真似、バターをつける真似、アイスクリームを母にねだりますには、機械を回す真似をして身振りをするのでした。


妹が生まれてからは、母の膝が占領された形で、ヘレンの心境に妙な妬みが醸された。妹の赤ちゃんを苦しめてやったり人形を奪うようになったりすることは常であった。その頃、ヘレンに秘蔵の人形があった。名をナンシーといい、ナンシーの為に一つのゆりかごが作られた。時々、それにナンシーを入れてゆり動かすのでした。しかるにある時、妹の赤ちゃんがその中に入ってすやすやと眠っているのを知って、腹立たしさに堪えず、たちまちゆりかごをひっくり返した。その咄嗟に母がその赤ん坊を支えなかったら、確かに知んでしまったんだと母は語った程だった。また、母が食料部屋に入るのを知ったヘレンはすぐ外から鍵をかけて閉じ込め、母の助けを求めて扉を叩く時、扉が振動するのを喜んだりするようなたちの悪いいたずらをする子供になった。彼女には悔いも責もなかった道徳的な観念はなかった。


自分で気にいらない時、意思の通じなかった時はまるで狂乱の如く暴れ回った。打つ、叩く、蹴るの駄々、手探り次第、何人でも投げる、壊すの乱暴、全くその悪を極め、母さえ如何ともなすすべもおなく、困りに困っていたものだった。


このどうにもならない少女も、年と共に生育し、野生は益々増長し、両親の悩みを増していった。ヘレン7歳の時、両親はいよいよ教育を施すべく決意した。その昔、ローラ・ブリッジマンがヘレンと同じ盲聾の子供で教育を受けた立派な口話人となったということをディケンスの渡米記で読んで知っていた。両親の決意も当然であったかも知れない。しかしながら、その奇跡を行ったハウ博士は既にこの世にはいなかった。一時は悲観したが、まず、その博士が在職した「ボストン盲人協会」に照会し、わが愛児のため、ハウ博士の代役をしてくれる教師はいないかどうかを尋ねてみた。偶然、職を求めていたその女性こそ豊かな常識と尽きざる忍耐と溢れる愛情とを具備したアン・サリバンであった。サリバンは1866年4月14日、アメリカ合衆国マサチューセッツ州フィーディング・ヒルに生まれた。幼くして目を患い、飲んだくれの父は行方をくらまして帰らず、母は生活に疲れて間もなく死亡。両親に別れたサリバンは不具な弟と共に救貧院に厄介となり、弟の病死後は全くの孤独、14歳の時、他の好意に依りてボストンのパーキンス訓盲院へ入学。貧乏の卑しさに加えて、強情で片意地な児は一時は校長も職員もサリバンを退校させようとさえ考えたことがあった。それながらも歳月は過ぎて、サリバンも16歳となた。その時、ある動機で視力の回復を得て大いに精励修養につとめた。


14歳の新入生は今は、20歳の卒業生です。卒業式の当日、総代演説を選ぶものは実にサリバン嬢であった。その日、純白の服の胸に、香高いバラの花を一輪差したサリバンは、校長に手をとらわれ席についた。7年前、乞食恰好の小汚い少女が、今は己に花のような淑女となって、檀上に立った時、彼女には感慨無量なものがあったに違いない。パーキンス訓盲院を卒業した時、ちょうど求めていた家庭教師の職を得て、南方タスカンビアのケラーの家へ行った。


盲目にして聾唖の7歳の女子供、手のつけようのない暴れ者、それを教育して行かねばならないサリバンは年齢21歳の妙齢、その実際の指導については幾夜眠らずに泣き明かしたことがあったであろう。

その日の午後、ヘレンは何かを待ち望むが如くに、つくねんとして玄関に立っている。午後の日光は、玄関を覆っている。足音の段々近寄る響きを感じたヘレンは、母であろうと手を差し伸べたところ、ますます近寄ってヘレンを抱きしめたものがあった。


これがすなわち、ヘレンに知識と愛とを授け、暗黒と沈黙のいばらを切り開き、光を与えようとして、はるばるパーキンスから招かれた家庭教師サリバン女史その人であった。



【秋田魁新報 昭和12年6月10日(木)朝刊2面】から引用