中島貞夫監督 | 人間の大野裕之

人間の大野裕之

映画『ミュジコフィリア』『葬式の名人』『太秦ライムライト』脚本・プロデューサー
『チャップリンとヒトラー メディアとイメージの世界大戦』岩波書店 サントリー学芸賞受賞
日本チャップリン協会会長/劇団とっても便利

中島貞夫監督がお亡くなりになった。

僕はとてつもなくお世話になった。一応、僕はこれまでに3本の映画をプロデュースしているけど、中島貞夫監督がいらっしゃらなければ、映画を1本も作れていなかっただろうし、『太秦ライムライト』は影も形もなかった。そして、それだけお世話になったのは、僕だけではなく、本当に大勢いると思う。

 

京都で映画のことをやっていると、どこに行っても中島先生のお名前とお姿を見る。僕も学生時代から、いろんなシンポジウムや企画で、先生にお会いする機会がたくさんあった。

本格的にがっつりお世話になったのは、もちろん『太秦ライムライト』の時だ。2013年の春先に当時立命館の教員もしておられた太秦の重鎮の録音技師林基継先生と一緒に中島先生のご自宅を訪れて相談した。京都市が、幅広く企業や個人から寄付金をいただき、そのうちの一部を映画への助成金にするという画期的な補助制度ができて、そのおかげで『太秦ライムライト』を作ることができたのだが、そのシステムは中島貞夫監督の京都市への働きかけなしにはありえなかった。中島先生がおっしゃってくださったからこそ、行政もしっかりと考え動いてくださった。

京都市と一緒に活動した「『太秦ライムライト』製作委員会」では委員長を務めてくださった。委員会での活動はもちろんだが、何度か委員会のメンバーでの打ち上げや忘年会にもご一緒した。先生がお酒に口をつけないので、「先生お飲みにならないのですか」と聞くと、「明後日が人間ドックなので数値が悪くなるといけないので控えている」との事。そんな状況でも、しっかりと私たちの会合に参加してくれるのが中島先生なんだ。

 

『太秦ライムライト』クランクインの前日に、野上龍雄先生が亡くなったという知らせが届いた。中島先生に電話をしてそのことをお伝えすると、 電話口でもわかるほどがっくりと肩を落とされて、「そうか…そうか…」と絶句された。太秦ライムライトを完成させて野上先生にも見て欲しかったですと僕が言うと、そうだなと言って、ただ一言「明日から頑張ろうな」おっしゃってくれた。僕は今でもその言葉こそ中島先生そのものだと思っている。80歳の大先輩が、半分にも満たない年齢の僕に対して「頑張れよ」じゃなくて「頑張ろうな」と同じ立場で言ってくれたこと。それが中島先生なんだ。だから、中島先生なんだ。

 

『太秦ライムライト』では、最後の撮影シーンで監督役としてご出演いただいた。周囲には、「俺だとギャラが安いから。やり手のプロデューサーの大野が節約したくて俺に頼んでるんだよ」と冗談をおっしゃっていたけど、現場はニコニコと楽しそうだった。

東映の京都撮影所の俳優会館から立ち回りの撮影があった第6ステージまで、中島貞夫監督と松方弘樹さんと僕の3人で歩いて行ったときのことが忘れられない。監督が杖をついているのを見て、松方さんが「監督どうしたんですか、なんでそんなもの持ってるんですか」と言ったら、「え?? ヒロキちゃんこれは転ばぬ先の杖だよ」とか言いながら。

 ステージにつくと、東映剣会の面々がずらりと出迎えていて、おはようございます!おはようございます!と威勢のいい声が飛んだ。時代劇全盛期とはかようなものであったかと思わせて、目頭が熱くなった。

 

『太秦ライムライト』の終盤に、体がきかなくなった香美山(福本清三さん)を降ろせと言うシーンがある。その時、それまで古い時代劇を壊すと言っていた、合田雅吏さんが演じるプロデューサーが、香美山の素晴らしいチャンバラに心を変えて、やっぱり香美山さんに最後までやらせてあげてくださいと言って、香美山は一世一代のチャンバラの撮影に臨む・・・。

このシーンに対しては、なぜ急にあのプロデューサーは心変わりしたんだなどと言う疑問の声も寄せられた。そういうふうに疑問を持つ人の気持ちはもちろんよくわかる。でもあのシーンはストーリーとかキャラの整合性なんかを超えたシーンだ。撮影前に合田さんは僕を呼んで、あのセリフは絶対自分に言わせてくれ、そういう台詞を書いてくれと頼んでこられた。合田さんは、長年水戸黄門でご一緒した福本さんにあのセリフが言いたかったのだ。

すると、次に中島先生が東映の控え室に僕を呼んで、「大野ちゃん悪いんだけどさ、合田ちゃんがあのセリフ言った後、俺が福ボンの方を見て、『よしこいつならいける』と納得して、俺が福ボンに立ち回りをやらせると決心する、その表情を撮影してほしいとプロデューサーの大野ちゃんから監督に言ってくれないか?」とおっしゃった。もちろん落合監督にそのようにお伝えしてその通りになった。

あそこは映画のストーリー何かを越えて、みんなの福本さんへの想い、時代劇への想いが溢れ出した瞬間だった。映画のストーリーの枠なんかは超えて、そのことで本当に映画的なシーンになったと思う。

それにしても中島先生は、そのためにわざわざ僕を控え室に呼んで「悪いけど、俺の表情を撮ってほしいんだ」とおっしゃったこと、あのお茶目さ、正直さ、そしてちゃんとプロデューサーを通すエチケット、何もかもが素敵すぎる。

 

中島さんが監督役をやっていたときの「用意、スタート!」「用意、はい!」と言うあの張りのある声。落合監督もどうやら影響されたらしく、あの声を聞いてから以降は中島監督と同じ言い方になっていた。

『太秦ライムライト』公開の時もとてもお世話になった。何度も舞台挨拶をしていただいた。当時、100の人が力を尽くして助けてくれた。ごく1〜2人理不尽なトラブルを起こした人もいたけど、そんなときも中島先生は全力で助けてくれた。そして、それが解決し勝利した時は本当に喜んでくれた。

 

 最後の監督作となった『多十郎殉愛記』の撮影も見学させていただいた。竹やぶの中で立ち回りの演出をつけておられた。あのエネルギッシュな監督の姿を今も目に焼きついている。監督は竹やぶの斜面をウロウロしながら演出をつけており、松方さんじゃなくてもあの杖は何のためにあるのかと思ってしまうほどお元気だった。

多十郎の直後は私たちの『葬式の名人』の撮影で、そこには中島貞夫さんがヤクザの組長、福本清三さんが若頭、劇団とっても便利の鷲尾直彦が組員と言うすごいキャスティングのシーンから撮影が始まった。僕が中島先生のところにお願いに行った時に、ろくに話も聞かずにはいはいと出演を快諾していただき、撮影が近づいた頃に「ところで、私は何をやればいいんですかね」とおっしゃるので「ヤクザの組長ですよ」と言うと、「ああ、そうですか。私はその辺の事はあまり詳しくないんですが」とトボけたギャグを言ったのが忘れられない。その割には、「若頭というのはこれこれこうだから。福ぼんのような年寄りがやっててもおかしくないんだよ」とやたらと組織に詳しかった。

 

中島監督とは、鳥取での映画の企画のために鳥取でもご一緒したし、いろんなインタビューや打ち合わせで、何度も御所の南側にあった素敵なおうちにもお邪魔した。監督の記念パーティーにも呼んでいただき、とにかくこの15年以上おりに触れて監督とご一緒させていただいた。

最後にお会いしたのは、今年2月の福本清三先生3回忌のイベントだ。時代劇について、京都の映画について、福本清三先生について、深い深い言葉をかみしめるようにおっしゃってくれた。まさかあれは遺言だったのか。

その翌日、僕は1人で先生のマンションを訪れて、昨日はどうもありがとうございましたとお礼がてらいろんな話をした。「本当に中島先生のおかげで『太秦ライムライト』ができました。先生がいなければできていませんでした」と改めてお礼が言えたのは今となっては良かったと思う。「いやいや、そんなことないよ大野ちゃんが頑張って作ったんだよ」「それにしても本当に作ってよかったです。福本先生の主演作があるとないとでは大きな違いですから」というと、先生は、「本当によかったね。だってさ、作らなきゃ、ないんだからね」作らなきゃ、ないんだからね。創造者の言葉だ。

「先生も、またもう1本作ってくださいよ」と言うと、今までは「今度は加藤清正のを作りたい」とかいろんなことをおっしゃっていたのに、その時だけは「いやあ、もう俺はよぼよぼだよ。若い者に頑張って欲しい。いくらでも応援するから」とおっしゃった。僕は少しだけその言葉に違和感というか不安を感じた。そしてその4ヶ月後の今日、全く思いがけず訃報に接した。

まず、4ヶ月前にご一緒してシンポジウムに出ていただき、100名以上のお客様にサインをなさるほどお元気だったのに、いくらなんでも早すぎると言う驚き。

その次に、最後まで現役でいらっしゃったんだと言う感服の思い。

そして、寂しい、悲しい・・・でもその感情はまだわからないほど、気持ちに整理がつかないというか、実感がない。明日から日々、喪失感が増していくのだと思う。

これまで京都の映画を本当に引っ張ってこられた中島監督がいらっしゃらなくなった、これからどんなふうになっていくのか想像もつかない。

ゆっくり休んでくださいと言いたいところだけれども、きっと天国でもあの何のために持っているのかわからない杖をつきながら、ウロウロウロウロしていろんな人の世話を焼いているのだと思う。

本当にずっとずっとお世話になった。 ホントに何も恩返しできなかった。そのことにただ呆然としている。