やっと怒涛の一週間が終わりました……
学校の1年は4月に始まり3月に終わります。3月はまさに怒涛です、よね?
その一週間の終わり。自分へのご褒美に一杯、いや二杯、勝手に乾杯しています。
酒の肴に、だいたいはテレビを観ているのですが。
今日は3月11日。そう、かの大震災からちょうど11年。NHKではその関連の特番が組まれています。そしてまた別の番組では、ロシアによるウクライナ侵攻の特番。かと思えば、裏番組では星野源さんの「おんがくこうろん」なる番組で中村八大さんの特集をやっています。
人間は、自分が「平和」の中にいると、そのありがたみに鈍感になってしまうような気がします。そして鈍感になっている矢先、戦争や災害に直面して改めて平和のありがたみを思い知るのかもしれません。
お酒をいただいているからでしょうか。こんな気持ちが心の表面に表れます。
私(たち)は教師です。子どもに何かを教えている…わけです。例えば私なら音楽を中心に教えています。
では、例えば「音楽を教える」とはいったいどういうことなのでしょうか。
音楽の素晴らしさ、楽しさ、美しさ、音楽の理論だって教えます。そう、小学1年生にだって…。
そういえば、今日、1年生の授業がありました。全員で一つの輪をつくって、一人4拍の中で自由にリズムを、パフォーマンスをしたのです。それをみんなで真似っこしながら繋げていきました。これまでにない、このクラスのエネルギーを感じるに至りました。
今日、私は彼らに何を教えたのでしょう?
おそらく、創造の素晴らしさ、そして共創の素晴らしさ、そして音楽の協働性、共感性と言ってもいいでしょう。本質的にはそういうことを教えた、いやそれはおこがましいですね。共有させてもらったというべきでしょう。
今、ウクライナ侵攻のことで多くの地球民が心を傷めています。
今日、かの大震災に多くの地球民が思いを馳せています。
その時、そう、心を傷めているとき、傍にいてくれるのが、その一つが「音楽」に他なりません。
テレビを観ていて思います。音楽は何のためにあるか、と。
中村八大さんがつくった名曲「上を向いて歩こう」は作曲から50年以上も経った今でも世界中でリミックス、リメイクされているそうです。その普遍性たるや、凄まじい力強さを感じます。まさに音楽は国境も時代も超えている、その証拠です。
普遍性といえば、この地球もそうです。普遍的に存在するのです。
誰のための、何のための音楽の存在なのか。
誰のための地球なのか。
ウクライナ侵攻と、東日本大震災11年目のこの日に、思います。
私たちは日々、明日の授業をどうするか、これに心を砕いています。どうやって授業を成立させるか、どうやって音楽を楽しく教えるか。
かく言う私もそうです。
明日のことで手一杯なのです。
うまく行った!と思う日もあれば、あぁ今日はダメだった…と思う日も少なくありません。
しかし、近視眼的になってはいけない…
そう思っています。
今日のこの授業は、将来この国を任せていく、この地球を任せていく子どもたちに何らかの役に立つだろうか…。そういう視点をもちたい、そう思うのです。
前にもこのブログで書いたと思うのですが、こういうややポリティックなことを書くと「あいつは右寄りだ」とか「左寄りだ」とか言われます。でも、そういうこと言っている人は間違いだと思います。
世界の平和を願い、尊重し、それを希求して日々の生活を送ろうとする人を育てるのが教育の一義的な目的であることは誰も否定しないでしょう。
これも前に書きましたが、
脳科学者の中野信子さんは言いました。私も直接インタビューさせていただいた時にこの耳で確かに聞いたことです。「遠い問い」と「近い問い」のことです。
今日の授業が成立したか否かは、端的にいえば「近い問い」ですね。
今日の授業を通して平和を希求する人を育てることに寄与したかは、「遠い問い」ですね。
どうしても人は「近い問い」に目を奪われがちです。そりゃそうです。明日のことは大切です。でも、その先に何を見ながら授業をしているのか。これはさらに重要です。
そう思います。
「なんのために音楽があるか」
そういう目標を掲げて授業をしてみる価値はありそうです。
こういう授業をしたことはあります。「はじめの一歩」という曲で、「この曲を誰に向けて歌いたいですか?」「誰に届けたいですか?」という問いかけを子どもたちにしたのです。面白いですね。正解のない授業です。
正解がないから面白い。正解がないからいい。ここにも音楽の本質がありそうです。
こんな日だからこそ、音楽の本質を改めて考えるのかもしれません。
地球について改めて考えるのかもしれません。