夏休みに入りました。急に暑くなって体調管理も大変ですね。皆さんもどうぞご自愛のほどを。
さて、明日は東京オリンピック開会式。紆余曲折ありましたが、始まるからにはアスリートたちを応援したいと思っています。反対論ももちろん理解できますが、アスリートたちには何ら落ち度はありませんから……。精一杯テレビの前でビール片手に応援します!
それにしても、昨日の女子ソフトボールも女子サッカーも、無観客っていうのは、やはりかわいそうだったですね。私は小学校から大学までずっとバスケット少年だったのですが、応援の声ってすごい力になるんですよ。そのことは知っているつもりです。高揚してくるんです、あの声で。中学校の時です。いわゆる中体連の地区決勝なんてなると、たくさんの人が互いのチームの応援に来てくれて、体育館がはちきれんばかりになります。さらにゲーム終了間際、接戦にもなろうものなら、体育館が割れんばかりの歓声と悲鳴に近い声が交錯して異様なムードになる。コート上の10人のプレイヤーはそりゃもう高揚するわけです。いつもより力が湧いてくる。いつもの1.5倍はジャンプできていたんじゃないかなぁ……そりゃないか(^^;
去年、オリンピックの延期が宣言されがっかりした私は、このブログで「待ってるぞい!」と開催を待ち望むコメントをしています。それだけ、今回の開催を楽しみにしていました。今もその気持ちは変わりません。明日は57年前の東京オリンピックと同じく、ブルーインパルスも飛ぶようですし、やはりイベントとしては楽しみなんです。
しかし、コロナ感染の状況に鑑みると、やはり大きな声で「楽しみ!」なんて言っちゃいけないんだな、と……。これ以上の感染拡大が進まないように願うばかりです。さまざまな対策の中の一つが、今回の「無観客」なわけですから、やはりこれは「かわいそう」だけど仕方ないのかと。
何か方法はないものでしょうかね。アスリートたちを鼓舞するような方法が。
これだけ技術が進歩しているのだから、各家庭での応援の声を直接スタジアムに流すというのはどうでしょう? 観客席の椅子一つ一つにスピーカーを置き、それぞれのスピーカーからは全国、全世界からの応援の生の声がランダムに流されるんです。例えば、昨日の女子ソフトなら、主に日本とオーストラリアの応援をしている人にコネクトの権限を与え、応援の生の声を電波に乗せて会場に流すわけです。するとリアルタイムに盛り上がる。「いいぞー!」「ヤッター!」「ウぉ~~~!」などなど。悲喜こもごもの声や拍手が届けられるシステム。
どうかな(^^;
あと……。看過できないのは、ここへきてのバタバタ辞任劇ですね。ジェンダーの問題で辞任した森元首相、過去のいじめ告白で自信した小山田さん、その前にも女性タレントへの差別発言で辞任した人、そして今日になって過去のユダヤの方々に対する侮蔑的なネタを披露したというので、明日の開会式のショーディレクターを担当している小林さんという人がユダヤ教団体に非難されています。これはもしかすると宗教の問題も絡んでいるからこれまでの辞任劇よりもっともっと大きな問題になりかねないと思ったりします。
こんな問題を考えるにつけ、職業柄「教育の問題」と結び付けて考える癖があります。今日のユダヤの問題は「特に」ですが、私たち日本人は世界史をあまり知らないんじゃないかって思うのです。その原因はいくつか考えられます。日本は島国だから、あまり世界との行き来が激しくないために関心が薄いということもあるかもしれません。近年留学する人も少ないと聞きますが、そのこととも無関係ではないような……。
それから、日本は第二次世界大戦で敗戦して、民主国家になりました。教育も変わりました。その戦後教育の中で、どういう歴史観、世界観を子どもたちに教えてきたのでしょうか。
先日脳科学者の中野信子先生と対談させていただく機会を得ました。そこで話題になったことで、「近い問い」と「遠い問い」というものがあります。日本の教育はすぐに正しい答えが出るようなこと(近い問い)に力を入れてきたきらいがあるのではないか、という話題です。中野先生がフランスでお仕事をしていた時に、ドイツ人の同僚に「日本では敗戦のことをどのように自分たちの中で処理しているのか?」(この場合、どう理解している、もっと拡大解釈すればどのような教えられているのか、教育されているのか、ということになると思います)と問われ、一瞬ドキッとしたそうです。そういう問いについていつも考えているわけではないし、学校では確かに教えられていないのです。もちろんこれに正解はありません。自分はどう考えるか、という問題です。なかなか答えが出ない難しい問題、そういうのを「遠い問い」と呼んでいるわけですね、中野先生は。
教育とは、こういう「遠い問い」を考えるだけのエネルギーとか、最低限の知識、そして思考方法を教える責任があると思います。
しかし、例えば戦争責任とかという話は、教育の世界ではタブー視されているように感じます。だから、私を含め、今の日本人、若者、子どもたちは、世界のあらゆる実情、実態(もちろん過去から現在に至るまでの…です)をあまり知らないのではないかと思うのです。
前にもこのブログで書きましたが、私がアメリカにいたとき近所のコリアンデリの主人に日本語でこう聞かれました。私が大学4年のときです。「あなたは日本人か? あなたは裕仁天皇の戦争責任をどう思うか?」と。一瞬思考停止になったのをよく覚えています。いつも機嫌のいいおじさんで、それが好きでいつものようにそこで買い物をしていたのですが、そんなことが吹っ飛ぶ勢いで思考停止になったのです。「えっ? そんなこといきなり言われても…」「学校で習ってこなかったなぁ…」と。でも、それからです。考えるようになったのは。日本は世界と共にある、つまり各国と関係がある。関係の歴史もある。だから、ちゃんと歴史を学んでいないと相手を傷つけたりすることがある。もしかして、自分はいわゆる平和ボケしている日本人なのか…、いやそうに決まっている、と思うようになったのです。
今日のユダヤの問題はこれからどういう展開になるのか心配です。
「無知」ということは本当に恐ろしいものなのです。ユダヤの人々がどんな思いをしてきたか、という本当のことを、本当の気持ちを知らないから、問題が起きたのですね。森さんも、今のジェンダーにかかわることを本当には感じていなかった、知らなかったから辞任に追い込まれたわけです。
「知識」がないと「思考」は貧弱になります。もちろんその先にある「判断」も同様です。今、学習指導要領はいわゆる3つの資質・能力で書きなおされました。これは日本だけではなく世界的な動きです。コンピテンシーベースですね。これだけ世界がインターネットで、飛行機で、行き来が簡単になりました。地球が小さく小さくなっているのです。世界との交流が一層さかんになり、その中の日本なんだ、という意識を高めることは、教育の一つの急務と言えるのではないでしょうか。
過去も含めて、世界に起きたあらゆる問題を直視して、事実とそこに生きた人々の暮らしぶり、思い、怒り、喜びをもっとリアリティをもって教育は語るべきでしょう。「遠い問い」に真剣に向き合えるだけの体力を、教育は子どもたちにつけてやらねばならないと思います。
そういう意味で、今回の東京オリンピックは、いろいろな教訓を日本に与えるのではないかと予感します。いろいろな出来事が少しでもいい方向に日本や世界が向かえるよう、よりよい解釈がなされますように…。
そして、私たち音楽教育に携わる者も無関係ではありませんね。音楽を通して、日本、そして世界を見渡せるような授業をしないといけないと思うのです。世界の中の日本であること、音楽を通して世界の人々と仲良くなれることを、そういう文化をつくっていくことこそが、私たち音楽教育に携わる者の本当の使命だと、改めて思うのです。
文化とか芸術って、そういうものだと思うのです。
がんばれ! アスリートたち!