「事必帰正」とは、韓国の四字熟語で、「万事は必ず正しきに帰する」ことを意味します。その言葉には、現実がどれほど偽りや不義に覆われているように思えたとしても、全ては必ず、神の原理原則によって、正しく収拾されていくのだ、という著者の思いと信念が込められているように思います。

 

郭先生と言えば、真のお父様に最も近く侍ってきた先生であり、摂理の生き証人として知られた方でした。しかし、多くの食口の記憶の中では、お父様から「模範家庭」と言われた郭先生のイメージよりも、神の御旨に背き、お父様のもとを離れ、異なった流れを作り出した「郭グループ」の親玉という、10年来の教会情報のほうがリアルなイメージとして定着してしまっているのかもしれません。

 

私は予てから、教会の郭先生に対する一方的な糾弾は、顕進様を攻撃するための口実であり、そのためのスケープゴートでしかないと感じていました。しかし一方で、「郭先生がもっとはっきり口を開き、お父様に対しても、周囲に対しても、説明責任を果たすべきだったのではないか」という思いもありました。

 

しかし、、この本を読みながら、、郭先生がなぜ沈黙をせざるを得なかったのか、ただ静かにフェードアウトして行かざるを得なかったのか、その理由が分かったような気がしました。自らが口を開けば、父母様の課題に触れざるを得なくなり、真の家庭を傷つけることになるからです。

 

自分が大切にしてきたものを守りたい、傷つけたくないという気持ちは、私も分からなくありません、、レベルは異なるかもしれませんが、私も声を挙げようとした時、躊躇う思いがありました。声を挙げることで傷つく人たちがいるからです。真の家庭と教会をそれでも必死に守ろうとしてきた人間が、真の家庭や教会の課題に対して口を開こうというのですから、痛みを覚えずにはいられませんでした。黙っていた方がよっぽど楽だったに違いありません。でも、黙っていられなかったのは、一途なまでに真実に生きようとする方の姿を見つめたからでした。

 

郭先生の書籍の中に見るものも、苦悩であり、痛みです。様々な不条理の前に、多くの食口の方々が「何か意味があるに違いない」と考えるように、郭先生然り、目の前で展開する不条理の前に、どこまでも信仰的に、堅実な姿勢で歩もうとしたからこそ、隠忍自重の歩みを肝に銘じて来られたのでしょう。罵倒されようと、サタンの頭と言われようと、沈黙を選んできたのは、守りたいもののためだったのだ、ということが、この本を読めば分かるでしょう。

 

しかし今、郭先生が10年来の沈黙を破って口を開こうとしている理由もまた、この本の中に記されています。それはまた、真実・正義・善を信じて一途に歩んで来られた方の生き様ゆえです。ご自分がお父様の傍らで目の当たりにしてきた「神と共にある者」の生き方を、顕進様の中に見たからだと言います。

 

教会がこの書籍を、食口を惑わせるサタンの書、「悪書」として必死に遠ざけようとしている理由は、そこに、知られたくない「真実」が記されているからでしょう。どちらが真実で、どちらが偽りなのか。それは、読者一人一人が判断すべきことであって、組織がどうこう言うべきことではないと思います。全てを鵜呑みする必要などないでしょう。しかし、10年間、罵倒や中傷に耐えてきた人が、わざわざ「嘘」をつくために口を開いていると思われるでしょうか?

 

郭先生が本の中で、こんな言葉を記しています。「非原理と反摂理で築き上げられてきた砂の城は、真実の水に出会えば、簡単に崩れて行くのです。」 

 

それは私自身、こちらに来てはっきり感じたことでもあります。真実に立っている側は、「見るな、聞くな、触れるな」とは言わないでしょう。真実と偽りとは、同時に同じだけ触れれば、はっきり分かってくるものだからです。

 

様々な妨げや障壁を越えて、心ある人々がそれぞれに真実を求め、自らの答えを見出すことを心から祈ります。

 

 

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以下、「はじめに」より抜粋

 

私の心の中に永遠にる痛みがあります。目を閉じれば浮かぶかしさと、どうしようもない切なさがあります。過去10年間、多くの化がありました。誰も想像できなかったのお父聖和は、私たち全ての悔い改めと痛みの現となりましたの家庭の中で生した理観の衝突と分立は、の父母位相と生涯の業績に惨たんたる泥を塗りました。

 

この葛藤がどのように結するか、多くの人たちが思い悩んでいることと思います。しかし、正しい原理的基準だけ持っていれば、結果を予見することは難しくないでしょう。

 

() 過去10年間、私は普通の先輩家庭たちとは異なり、特別な日常を送ってきました。口を言い、後ろ指を差す兄弟たち、同僚たちの元を離れて、お父訓と統にしがみつき、孤な道を歩んできました。宗教ゆえに長い歳月を追われてきたことは、耐え得るものでした。しかし、共に歩みを成してきた兄弟たちや食口たちから顔を背けられることは、余りにも胸痛いものでした。「天情の因縁に、かくもひびが入ることがあるのか」という苦は、一時的に身動きもできないように私を縛りつけました

 

しかし、私は今、お父様の夢と遺志に従う正しい理の道の上に立っています。常にかい神様の動向を感じ、感謝して生きています。過ぎて見れば、そうなのです。神様の特別なみで、お父様に最も近い所で侍りながら、中心理と分離することができない人生を私は生きてきました。昨今の事態にして、長い期間、愛で育ててくださり、任せられた重責を行ってきた者として、責任を免れることができない私の立場です

 

(中略)神様は決して、み旨を放棄されません。準備した道に混と間違いが大きいほど、その一方で正道をしっかりと築かれる神様です。混期に自ら混迷した者は、神様が予め備えられた新しい機会に出会うことはできないのです

 

この本が、祝福家庭たちをして、過ぎ去った歳月を冷静に見つめ直す契機になることを祈ります。この本が、全ての食口たちをして、神様の深い心情の中で、自らの定位置を探して行く動機になることを祈ります。

 

 

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(日本語版だけで既に500冊程出ているとのこと)

 

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