旧中山道沿いの古家の軒下に取り付けられた【一四〇番】の電話番号札。


総務省ホームページの「電気通信番号制度」のQ&Aを見てみると、電話番号とは【通話の相手を識別するために使われる、0から9までの数字を組み合わせた番号で、普通の固定電話の電話番号は「0-市外局番-市内局番-加入者番号」の電話番号】とあったけど、この電話番号札の数字はたった3桁。

そもそも電話番号札ってなんだろう。

家の軒下に電話番号札を付けていたことを知らないし、電話番号札というものの存在を知らない。
でも実際に古家の軒下に付けられていた物なので、昔を調べてみれば何か分かるかもしれない。

そんな感じでこの【一四〇番】の電話番号札を調べてみることにした。

まず、電話はいつから使われていたのだろう……って話を大きくしちゃうと大変なので、あくまでも大宮に限定することに。

当時の大宮の電話の普及については『大宮市史』第4巻(近代編)のP.573から詳しく書いてあった。

『大宮市史』第4巻 (近代編),大宮市,1982.3.
国立国会図書館デジタルコレクション https://dl.ndl.go.jp/pid/3007303

それによると、大宮の電話回線は、明治41年(1908年)に30台が開通し、明治43年(1910年)には第2回の拡張で68台に増えたそう。

この頃の電話加入者については、同年に出版された『大宮案内』に「大宮案内附録 大宮電話案内」があった。



熊谷利三郎 編『大宮案内』,実業新聞社,明43.12. 
国立国会図書館デジタルコレクション https://dl.ndl.go.jp/pid/763675

ちなみに余談だけど、この当時の電話番号のまま令和6年の現在も営業されているのは、【二三番】の電話番号で創業明治14年(1881年)の『伊勢錦』さん(市外局番と市内局番を追加して048-641-0023)くらいかな?

 

 

話しを『大宮市史』に戻すと、その後も電話番号は大正元年(1912年)に104台、昭和3年(1928年)には500台と順次増えていったとの事だったので、大正3年(1914年)の『大宮案内』の「大宮電話案内」を見てみる。

すると【一四〇 濱野幾太郎】を発見!



埼玉時事新聞社編輯局 編『大宮案内』,埼玉時事新聞社,大正3.
国立国会図書館デジタルコレクション https://dl.ndl.go.jp/pid/948005

同じく「大宮商工者案内 料理店」のページを見ると【仲町 濱野屋 濱野幾太郎】と記載があった。




これによって【一四〇番】の電話番号は仲町の濱野屋さんの電話番号だと分かった。

次は、この濱野屋さんがあった場所を探してみる。

先ほどの『大宮案内』には仲町とあったので、まず現在の仲町の場所をgoogle マップで確認してみる。

 


次に、昭和9年(1934年)の『大宮商工並ニ名勝案内地図』で仲町を赤枠で囲ってみる。


大宮商工並ニ名勝案内地図 1934(昭和9)年発行 より一部加工

(以下の2枚も同様)

この赤枠で囲った仲町の中でそれらしい名前の店を探してみると、多少の漢字のブレはあるけど【蒲焼 浜乃家】さんを発見。




そして、この場所を今現在も同地に存在している「辻旗店」さん、「西原医院」さん、「倉屋敷稲荷神社」さんの位置もふまえて考えてみる。
 



現在、西武バスさんのバス停「仲町」が目の前にある場所、つまりここになると思う。

 


そう。現在も時が止まったままのこの場所。
この古家が冒頭の電話番号札が付けられた古家。

そして、疑問が一つ。
いつまで営業されていたのだろう。

よく見ると、建物向かって左側の軒下に【大宮保健所管内 食品環境衛生協会会員証之証】が取り付けられていた。



『埼玉の公衆衛生史』で【大宮保健所】の開設を調べてみたら、昭和19年(1944年)10月1日とあり、【食品環境衛生協会】については昭和25年(1950年)との記載もあったので、少なくても昭和25年過ぎくらいまでは営業されていたんだろうと思う。

『埼玉の公衆衛生史』第1篇,埼玉県公衆衛生史編集委員会,1978.9. 
国立国会図書館デジタルコレクション https://dl.ndl.go.jp/pid/10260846


明治の終わりから大正、そして昭和に入って戦後までお店は続いた。

そしてお店としての役目が終わり、時代にそぐわない姿になった今も、幸か不幸かこの場所に遺り続ける。


2023.5.3撮影

あくまでも個人的な考察となります。

ではまた。