8月はお盆があるからなのか、
今ライオンズゲートが開いているからなのか、
そもそもホロスコープ的にもあちらの世界(潜在意識)と深く繋がっている時期でもありますし、
黄昏時が長ーーーく続く夏の日はあちらの世界との境目が薄くなる時が長いような、そんな感じがします。
今日は広島平和記念日ですね。
78年前の今日光になったたくさんの命とそのご家族、今でも苦しみの中におられる方々が癒されますように。心からお祈りいたします。
8月には「平和とは何か?」考える機会がたくさんあることに感謝します。
もう4年前になりますが、このようなブログを書きました。
私の中に【戦争的なもの】はないか?
とても、本質的でグッとくる。
「私だけが」という優越感はないか?
誰かを負かそうという勝ち負け意識はないか?
「自分だけが良ければいい」という気持ちはないか?
こういうものがあるとダメということではなくて、
こういうものがあるとき。
なんだかやましい。
そのやましさをごまかそうとしたりすると、
相手に八つ当たりしたくなる。
「正しい」「正しくない」を振りかざすと
さらによくわからなくなる。
正しければやってよい、ということにはならないのに
それを主張したり、
それで押し通そうとしたり。
そして、負けられなくなってゆく。
そう。
きっと、「戦争」もこういうことなのだ。
でもきっと、
本当は「それ」をしたいわけではない。
だから、
もしも、私の中に【戦争的なもの】があったとしたら、
それをそのまま放たずに、
正当性を主張せずに、
しっかりと潜ろう、
愛にたどり着くまで。
このようなことを書きました。
今の日本が戦争がなく平和なことはとてもとてもありがたいことで、
終戦から78年もの間「合法的に人を殺してもいい」という選択をしないで和の道を歩き続けてくれた先人達に心から感謝します。
そして世界中がそうあってほしいと、今紛争や戦争の中にある国の人たちが1秒でも早く安心して眠れる日が来るように心から祈ります。
その上で、
では戦争をしていなければ平和なのかというと、本質的にはそうではないとも思う訳です。
自分の中に暗い影のようなものが生まれた時に
それをそのまま相手や世界にぶつけることが「和」を乱すことになるように思います。
ちょっとした意地悪な心。
相手の上に立ってやろうという優越感。
やましさを隠そうと偽ること。
欲に目をくらませること。
人を傷つけるような軽薄さ。
素直になれず頑なになること。
感謝できないこと。
ごめんなさいを言えないこと。
そんなこと自分はやらない!そんな部分自分にはない!と思っても、私はその火種は誰にでもいつだって起こっている、と思うのです。多かれ少なかれ。
そのような「影」が生じること自体が悪いことではない。
光と影はいつだってセットで、影なる部分が生じることは自然なこと。
まるで暑さが極まると台風が生じるように。日の光が強すぎて山火事が起こるように。
そのような「影」が生じた時、
誰かや世界を傷つけることでそれを解消しようとするのではなく、
常に自分が優位でいようと傍若無人に振る舞うのではなく、
自分の中で影なる部分を受け止められる大きな器になりたい、私はそう思う。
4年前のブログでは
「正しい」「正しくない」を振りかざすと
さらによくわからなくなる。
と書きました。
「正しさ」というのは人それぞれで、それぞれがそれぞれの主張を振りかざすとそれこそ争いになってしまう、とは思う。宗教戦争だって国家間の戦争だって常にそれぞれの正義の戦いだ。
でも4年経って私の中ではっきりしたことがあります。
それは「正しいか否か?」ということの本質は「美しいかどうか?」ということなのだということ。
その振る舞いは美しいのか?と問うならば、私の中ではっきりと「YES」か「NO」は決まってくる。
そう問う時「わからない」が存在しないのです。
それほどに、私たちは「美しいこと」=この世界にとってよきことを心の奥の奥のところで知っていると思うのです。
どんな時だって自然の営みは美しい。
醜い夕陽、美しくない夕焼けを私は見たことがない。
そして私たちもその世界の一部なのだから
「それは美しいのか?」と問うだけで自分の取るべき行動、進むべき方、使う言葉、選ぶ思考、発する空気の答えがわかる、私はそう思っています。
自分の中に影なる部分が生じた時、自分の中で「美しい」と思える選択ができる自分でいよう、そしてそう振る舞える私でいよう。
平和の日に改めて誓います。
それが、私にとっての平和の体現です。
森永 美陽