G・K・チェスタトンに対する
自分の見方が変わったのは
芹沢一也・荻上チキ編
『日本思想という病
なぜこの国は行きづまるのか?』
(2行目は副題です)
という本の第一章になっている
中島岳志の「保守・右翼・ナショナリズム」
という文章を読んでからでした。

(光文社、2010年1月25日発行)
音楽批評家というより
最近は右翼思想の研究者として
有名になった感のある片山杜秀や、
「教養」についてのエッセイで知られる
高田里惠子といった人たちの
講演録を集めた本です。
「といった人たち」の残り二人、
植村和秀と田中秀臣については
いまだによく知る機会を
持てておりません。
それに、この本自体は
いまだに完読していませんので(^^;ゞ
全体の感想は何もいえませんが
中島岳志という書き手を
教えてくれただけで
自分にとっては
大事な本となっています。
中島はこの本の中で
思想としての保守主義について
噛み砕いて紹介しているわけですが
25ページで
小林秀雄、福田恆存、江藤淳と並んで
チェスタトンの名前が出てきたときは
びっくりしました。
チェスタトンのどこが保守主義なのか
詳述されていませんが
そこに書かれている
保守主義についての説明は
記憶にあるチェスタトンの発想と
比べてみても
いちいち頷けるもののように思え
思想としての保守主義とは何ぞや
と思って、関連文献をあさったものでした。
中島が「尊敬している」(p.40)という
西部邁の本も探したりしましたが
これが探すのも読むのも
なかなかの難物でして
ついこのあいだ文庫化された
『保守思想のための39章』(中公文庫)も
初版本(ちくま新書)を図書館で借りたりして
何度も挑戦しては、読み終えられず
文庫も買いましたが
いまだに挫折を継続中です……orz
結局、自分にとっての
保守思想に対する理解は
中島の「保守・右翼・ナショナリズム」の
内容にとどまっているわけですが
今のところ、それだけでも充分というか
上の文章だけでも
チェスタトンを保守思想家として
読み直すための役には立っております。
中島の文章に接してから
いつかはチェスタトンを読み直さねば
と思っていたところに
『ブラウン神父の無心』という新訳が出て
おかげさまで読み直すことができ
おかげさまで
逆説がどうの、トリックがどうの
という評価軸から離れて
読み直すことができました。
ここ何回か書いている内容は、
もちろん別宮貞徳などの
先人の業績を参考にはしていますけれど
中島の文章によって得られた知見が
理解を助けていると思っています。
チェスタトンについては
ミステリ系列での紹介の言葉が
自動化していて
上にも書いた通り
逆説とかトリックとか
そういったことを書けば
済むようなところが
あった気がします。
逆説を弄する
思想的背景については
寡聞にして
論じられたことはないようですし
江戸川乱歩に
「形而上的手品」という
評言がありますが
その「形而上的手品」とは
いかなるものか、ということが
詰められていないようです。
また
チェスタトンの思想といえば
カトリシズムとなっていて
カトリシズムは
ミステリ分野からは敬遠されて
なんだか神秘思想まがいなものとして
あるいはオカルトめいた感じに
受けとられていた気がします。
ミステリのトリックとかは分かっても
カトリックについては分からないから
といって敬して遠ざける感じ
とでもいいましょうか。
逆説とカトリシズムの関係も
寡聞にして
その解説を読んだ記憶がありません。
こういうノリだと
結局キリスト教が分からないと
チェスタトンは理解できないんだよね
という気分になってくるんですが
そこで中島の文章に出会って
保守思想といわれた途端に
パーッと視野が開けた感じがしたんですね。
自分の資質の問題でもありましょうし
思想的な傾向の問題でもありましょうが
カトリシズムといわれるより
保守思想といわれた方が
腑に落ちる感じがされたわけです。
『日本思想という病』が出てから
早くも3年が経とうとしていますが
これからチェスタトンを読もう
という人には
あるいは
これからチェスタトンを読み直そう
という人にも
中島の文章は必読ではないか
と思う次第です。
チェスタトンの名前は
たった1行しか
出てきませんけどね(笑)
自分の見方が変わったのは
芹沢一也・荻上チキ編
『日本思想という病
なぜこの国は行きづまるのか?』
(2行目は副題です)
という本の第一章になっている
中島岳志の「保守・右翼・ナショナリズム」
という文章を読んでからでした。

(光文社、2010年1月25日発行)
音楽批評家というより
最近は右翼思想の研究者として
有名になった感のある片山杜秀や、
「教養」についてのエッセイで知られる
高田里惠子といった人たちの
講演録を集めた本です。
「といった人たち」の残り二人、
植村和秀と田中秀臣については
いまだによく知る機会を
持てておりません。
それに、この本自体は
いまだに完読していませんので(^^;ゞ
全体の感想は何もいえませんが
中島岳志という書き手を
教えてくれただけで
自分にとっては
大事な本となっています。
中島はこの本の中で
思想としての保守主義について
噛み砕いて紹介しているわけですが
25ページで
小林秀雄、福田恆存、江藤淳と並んで
チェスタトンの名前が出てきたときは
びっくりしました。
チェスタトンのどこが保守主義なのか
詳述されていませんが
そこに書かれている
保守主義についての説明は
記憶にあるチェスタトンの発想と
比べてみても
いちいち頷けるもののように思え
思想としての保守主義とは何ぞや
と思って、関連文献をあさったものでした。
中島が「尊敬している」(p.40)という
西部邁の本も探したりしましたが
これが探すのも読むのも
なかなかの難物でして
ついこのあいだ文庫化された
『保守思想のための39章』(中公文庫)も
初版本(ちくま新書)を図書館で借りたりして
何度も挑戦しては、読み終えられず
文庫も買いましたが
いまだに挫折を継続中です……orz
結局、自分にとっての
保守思想に対する理解は
中島の「保守・右翼・ナショナリズム」の
内容にとどまっているわけですが
今のところ、それだけでも充分というか
上の文章だけでも
チェスタトンを保守思想家として
読み直すための役には立っております。
中島の文章に接してから
いつかはチェスタトンを読み直さねば
と思っていたところに
『ブラウン神父の無心』という新訳が出て
おかげさまで読み直すことができ
おかげさまで
逆説がどうの、トリックがどうの
という評価軸から離れて
読み直すことができました。
ここ何回か書いている内容は、
もちろん別宮貞徳などの
先人の業績を参考にはしていますけれど
中島の文章によって得られた知見が
理解を助けていると思っています。
チェスタトンについては
ミステリ系列での紹介の言葉が
自動化していて
上にも書いた通り
逆説とかトリックとか
そういったことを書けば
済むようなところが
あった気がします。
逆説を弄する
思想的背景については
寡聞にして
論じられたことはないようですし
江戸川乱歩に
「形而上的手品」という
評言がありますが
その「形而上的手品」とは
いかなるものか、ということが
詰められていないようです。
また
チェスタトンの思想といえば
カトリシズムとなっていて
カトリシズムは
ミステリ分野からは敬遠されて
なんだか神秘思想まがいなものとして
あるいはオカルトめいた感じに
受けとられていた気がします。
ミステリのトリックとかは分かっても
カトリックについては分からないから
といって敬して遠ざける感じ
とでもいいましょうか。
逆説とカトリシズムの関係も
寡聞にして
その解説を読んだ記憶がありません。
こういうノリだと
結局キリスト教が分からないと
チェスタトンは理解できないんだよね
という気分になってくるんですが
そこで中島の文章に出会って
保守思想といわれた途端に
パーッと視野が開けた感じがしたんですね。
自分の資質の問題でもありましょうし
思想的な傾向の問題でもありましょうが
カトリシズムといわれるより
保守思想といわれた方が
腑に落ちる感じがされたわけです。
『日本思想という病』が出てから
早くも3年が経とうとしていますが
これからチェスタトンを読もう
という人には
あるいは
これからチェスタトンを読み直そう
という人にも
中島の文章は必読ではないか
と思う次第です。
チェスタトンの名前は
たった1行しか
出てきませんけどね(笑)