(2018年02月11日 OHK (岡山放送) みんなのニュース)

岡山の礎を築いた戦国武将、宇喜多直家と戦国の貴公子とも称される子息
秀家の法要。
(2月11日、宇喜多家の菩提寺 「天台宗 柴岡山 光珍寺」)




肖像画などの端正な顔立ちからイケメン武将として歴史好きの女性 「歴女」
さんらからも人気で、旧暦
02月14日とされる直家の命日、バレンタインデー
にちなみ、宇喜多家の菩提寺である光珍寺(岡山市北区)での法要でチョコ
レートやケーキが供えられるようになって今年で10年目。

バレンタイン法要とも称されて話題になり、関ヶ原の戦いで破れた秀家の流
刑先、東京の八丈島からもご当地チョコが届くなど、400年の時を超えてなお、
豊臣秀吉の天下統一に貢献した宇喜多家の生き方に多くの人が共感してい
ます。
(ニュースコメント 一部引用)

宇喜多家の家紋、児島の「児」(旧字体)が飾られたケーキ


秀家の流刑先、東京の八丈島から届いたご当地チョコレート




今年は 「戦国の涼星 宇喜多直家☆フェス」として法要の後、岡山県・全国
各地で活躍されている岡山市出身、岡山観光特使で情景描写ピアニストの
山路真美さんが、宇喜多家の波乱の人生を表現した楽曲を披露されるなど、
岡山市の発展の礎を築いた宇喜多直家・秀家を顕彰する動きがひろがって
います。

昨年の 「秋のおかやま桃太郎まつり」 では 「戦国の貴公子 宇喜多秀家☆
フェス」が開催されました。

(個人特定情報 (肖像) 保護の画像処理をさせて頂いています。)




1529年、宇喜多興家の子として、備前国邑久郡豊原荘(現、岡山県瀬戸内市
邑久町豊原)にあった砥石城(といしじょう)で生誕。(※生誕地は諸説あり)
<以下、備前入国・岡山開府に関わることのみ記述します。>

戦国時代の1573年、陸運・水運の利便性に富んだ当時の旭川河口付近の
三角州に連なっていた標高十数mの小高い丘陵 「天神山・石山・岡山」 の
「石山」を本丸とした「石山城」(元:榊原病院跡一帯、現:介護施設)を居城
として旧城下町を形成・整備しました。これが 【
岡山開府】 とされます。
城郭を現在の石山公園から石関町一帯へ拡大整備するとともに、各地での
備前国統一の合戦に専念・注力しましたが、石山城で病死。

(2013年01月15日撮影)
秀家が岡山城を築城するまで宇喜多家の居城とし、直家の岡山開府・備前
国統一の砦 「石山城」 の本丸があった元、榊原病院 (現、介護施設) と現
在の岡山城(左)

(2010年06月02日撮影)
宇喜多家の居城であった 「石山城」 の本丸があった元、榊原病院 (現、介
護施設 = 左)と、城郭をひろげた石山公園(正面) ~ 石関町付近(右)。
秀家の岡山城築城後は、二の丸・西の丸が設けられました。




宇喜多直家の次男として生誕。(幼名:八郎)
1581年、9歳の時に父・直家が病死。宇喜多家が従属していた織田信長に
より本領安堵 (所有権を保証) され、家督を継ぎました。
幼少のため、叔父の宇喜多忠家が代理となり、直家以来の重臣らが補佐。

11歳の時、備中東部から美作・備前一円を領有する57万4000石の大々名
となり、元服の際、養父・豊臣秀吉より 「秀」 の字を与えられ、秀家と改名。
後、26歳で五大老(豊臣政権の政務にあたった五大名)に任じられました。

1590年 ~1597年
豊臣秀吉の指導のもと、三角州の最も東の丘陵 「
岡山」 (現、鳥城公園)を
本丸とした新たな城郭を建造、城下町を拡張整備。
城郭建造中の1594年、秀吉宛の書状へ 「岡山」 と記したことが城郭・城下
名 【
岡山 の由来になりました。

城下町の拡大整備に併せて道筋を変更した西国往来 「山陽道」 の沿道に
備前国内の有力な商人・職人を誘致、【
西大寺町商店街・岡山表町商店街
の起源
】 になりました。

また、城下町整備後の1583年より 「吉備の穴海」(現、岡山平野~児島湾・
児島湖)の干拓、農地開墾に着手。
1584年~1597年、現在の早島の南東端を起点に西の向山・倉敷市街の南
から西を経由し、倉敷市北部の八幡山南麓(当時の高梁川河口)にかけて
築かれた壮大な汐止め堤防 【
宇喜多堤】 は、昭和中期の児島湾締切堤防
完成まで400年に亘る大規模な新田開拓・児島湾干拓の始まりとなり、穏や
かな瀬戸の入海 「児島湾」 と、児島半島 を誕生させるとともに、後世の【備
南地域、岡山県南発展】 の礎になりました。

(2010年06月02日撮影)
秀家が建造した天守閣の北へ、1964年~1966年 (昭和39年~同41年) に
再建された現在の岡山城と、岡山の大地を生み、文化を育んだ旭川。
秀家が建造した城郭のうち天守閣・石山門は、1945年(昭和20年).6月29日
の岡山空襲で焼失。

旭川 (本流) は秀家の城郭建造まで、龍ノ口山西麓 (現、岡山市中区祇園)
から八幡・西川原辺りを蛇行しながら、後世 (江戸時代初期) に造営された
後楽園(中州) の東側を南流していましたが、大規模な流路の付け替え工事
を行い、城郭北側・東側の防御力を強化する壮大な 「天然の堀」 として城郭
に沿うように流路を蛇行させました。

(2010年06月02日撮影)
1590年 ~1597年、宇喜多秀家が豊臣秀吉の指導のもとで築いた岡山城
本丸址の鳥城公園 (うじょうこうえん) 内、 城下名 「
岡山発祥地の碑。




宇喜多家は、お供えのケーキに飾られた家紋、児島の 「児」 が表すように
吉備児島 (現、児島半島) にゆかり深い氏族ですが、出自に関する説が大
別して備前三宅氏の末孫説と、後鳥羽天皇の末孫説に分かれています。

備前三宅氏の末孫説
古代朝鮮半島から吉備の穴海(現、岡山平野~児島湾・児島湖) に浮かん
でいた古代児島へ渡来して開拓、 古代日本の国家形成に貢献した部族と
して朝廷から児島屯倉 (朝廷直轄領) に由来する 「三宅」 姓 (三宅・屯倉、
等) を与えられ、備前国児島郡三宅郷 (現在の児島半島東部一帯) を治め
ていた百済王族の末孫とされる一大氏族 「備前三宅氏」 から分派した氏族
の末孫とする説。

渡来時、船に掲げた旗にしるされていた 「児」 (旧字体) から、島の名前が
「児島」 になり、宇喜多氏族の家紋になったとされています。

鎌倉時代は佐々木氏 (平安時代中期の公家 源成頼の孫、佐々木経方を祖
とする一族)に仕え、その中の一族が 「浮田」氏族に分派、後々に 「宇喜多」
氏族へ更に分派したとされています。

記述: 宇喜多和泉能家入道常玖画像賛 (1524年編纂)
自治体編纂歴史書 (岡山県史・岡山市史・倉敷市史)
岡山県児島郡誌 (1915年 私立児島郡教育会著)
戦国宇喜多一族 (1988年 新人物往来社発刊) 等
元々 「浮田」 は河川・河口沿いなど湿地帯の田(水が多い田)を示し、浮田
姓は古代その湿地帯を開墾、管理していた氏族であったとされます。
宇喜多家 (氏族) は、記述が確認できる文献から室町時代以降に分派した
とされます。


後鳥羽天皇の末孫説
第82代天皇、後鳥羽天皇の第四皇子、冷泉宮頼仁親王の曽孫(ひまご)
として生まれた武将、児島高徳 (こじまたかのり) の末孫とされる説。

冷泉宮頼仁親王は、奈良時代の740年に第45代、聖武天皇から児島
全土を神領として寄進された熊野権現 (現、倉敷市林) で飛鳥時代の
701年に日本独自の宗教 「修験道」 の開祖、役小角 (えんのおづの)
の五大門弟が開いた五流修験の五院(尊滝院・太法院・建徳院・報恩
院・伝法院) を鎌倉時代に第三皇子、桜井宮覚仁親王とともに継承。

1247年、冷泉宮頼仁親王の薨去後、頼仁親王の子、道乗が嗣子(跡
継ぎの子) がなかった桜井宮覚仁親王の跡を継いで尊龍院の大僧正
(管長) となり、五院各々を子息に継がせました。

1613年、江戸幕府による修験道法度により、修験道が本山派(天台宗
系) と当山派 (真言宗系) に分類された際、五流修験(五院) は本山
派 (天台宗系)修験として聖護院 (本山修験宗総本山) に属しました。
この五院の中で唯一、数世紀に亘る現在まで日本独自の宗教 「修験道」
の本山派 (天台宗) 修験総本山として伝統を継承されている 「尊滝院」
で、冷泉宮頼仁親王の子、道乗大僧正の子、頼宴大僧正の子として生まれ、
武家政権の関与を阻止続けるなど、一貫して天皇・朝廷・南朝へ忠誠を尽く
し、「南朝の忠臣」 と讃えられた中世の武将、児島高徳の末孫とされます。

記述: 歴史文学書 「太平記」 (編纂期不詳)
五流尊滝院世系譜 (明治期編纂)

<以下、私ごと & 私考>
こちら宇喜多家の菩提寺 「光珍寺」 では、太法院を継いだ冷泉宮頼仁
親王の子、隆禅 (権僧正) の子孫とされる先祖代々 「五流長床衆」 の
墓が熊野権現の裏山 (蟻峰山
..山麓) にあり、先々代(細川銀次郎)
から岡山市の中心部に移り住んだと聞く ”末孫” 先祖代々の法要もし
て頂いています。

いわゆる分家、無信仰の父親に、幼少の頃からクリスマスを祝わない
理由 (こじつけ) など (勝手な時だけ) 「うちは天台宗じゃ! 先祖は
児島の山伏! 先祖は・・・」 と、さんざん聞かされたことに嫌気をさし、
高卒後の陸上自衛隊、その後に勤めた会社で県内外を転々とした帰
岡後のコーポ暮らし (転居届) 時に、今思えば大それた?? 罰当た
り、若気の至り??でしたが、永年の 「本籍」 も併せて変更しました。

こちら
(ページ下段) でチラッとお話させて頂いた、長床衆に近く、
修験・山伏の日常生活も心得ていた大伯父から古文書を丁寧に
読み聞かせてもらったり、世系譜 (写し) を見せてもらったり、熊野
権現の先々代の神主さんからもお話を聞かせて頂いたりしたので
「先祖は・・・」 というのは真実と思います。
ただ、何代目かの祖先が婿養子に入って・・・ とのことで、血縁は
ない
家系図上の祖先とのこと。
そのうえ脊椎がイカれまくって以降、今の状態では道のりが遠くなりまし
た熊野権現と、裏山のお墓へお参りにも行けていない分際ですが、当
ブログでも記述しています 「神道・建国・天皇」 に関する修学への熱は、
無信仰かつ軍国教育で教わった偏向の事柄・歴史にしか関心・興味を
持たない父親を ’反面教師’ としたものでしたが、その起因の根底で
天皇・朝廷・南朝に忠誠を尽くした祖先、天皇・御皇族の熊野行幸時の
先達(道案内など)を勤めていた祖先の血 ・・・ではなく、祖先の魂が
隔世し!? ・・・と、厚かましく思っています。

母方の祖父も神道に仕えていました。
父方の祖父母同様、面識はありませんが金光教教会の神主でした。
幼少の頃、中1の時まで存命だった祖母に (散歩がてらに) よく
従姉と近くの教会・神社に連れて行ってもらっていました。

その頃より、「かしこみかしこみ申――す―― 高天原に・・・ 八百
万の神・・・ 豊葦原の水穂の国を・・・」 と、拝神・祝詞を傍で見聞き
し、「何言ょーたん
(何を言っていたのと、祖母を通じて意味
を教えて頂いて、幼ながらに神の国を想像していた遠ぉ―――ぃ日
の記憶があります。
岡山の風】 の原点として訪れ、風景・歴史・伝説をご紹介させて頂いて
いる 「
児島」 愛も、隔世した祖先の魂!? ・・・とも思っています。
陰ながら応援させて頂いている情景描写ピアニスト、山路真美さんが演奏
されたことにもご縁を感じました光珍寺、そして熊野権現、五流長床衆など
のお話から、ついつい今まで人さまにお話しなかった、熊野権現ご紹介記事
でもお話しなかったことまで転々としましたが、岡山開府・発展の礎を築いた
宇喜多直家公と秀家公が、元々は武家政権と対峙し続けた後鳥羽天皇の
末孫、御歴代天皇・朝廷から厚く尊崇された 「五流長床衆」 管長の末孫、
そして、一貫して天皇・朝廷・南朝へ忠誠を尽くし、「南朝の忠臣」と讃えられ
た児島高徳の末孫とされる説・・・

宇喜多氏自ら 「百済王族の末孫」 と文献に記されていたことから、公的な
歴史書 (自治体編纂等) でも採りあげられている 「備前三宅氏末孫 (百
済王族末孫・渡来)説」に比べて検証する文献は少ないとされていますが
機会がありましたら深く調べ直したいと思います。
宇喜多直家公、秀家公ご法要のお話から逸れた私ごとを長々申し訳あり
ませんでした。

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  史跡 「岡山城」 歴史概要
宇喜多直家の石山城入城(岡山開府)
宇喜多秀家の岡山城築城、城下整備。
鳥城公園 「岡山」 発祥の地
宇喜多秀家が築いた岡山城本丸址の鳥城公園 (うじょうこうえん)。
城下名 「岡山」 発祥地の碑。
現存する関ヶ原合戦以前の石垣として
全国屈指の高さ(15.6m)を誇る、1597年頃に宇喜多秀家が築いた
「本殿南東の高石垣」 など。
岡山市街の発祥地、京橋
宇喜多秀家の城下町拡張整備。
西大寺町商店街・岡山表町商店街の起源。
児島半島誕生の起点
宇喜多堤 誕生の歴史。
岡南富士 「怒塚山」 歴史編
児島開拓の歴史 (古代日本・児島の国づくり)
古代行政区画 「三宅郷」(現児島半島東部一帯)・備前三宅氏の由来。
後鳥羽天皇、皇子ゆかり「熊野権現」
熊野権現の御由緒・歴史、五流修験 (児島山伏) の起源・歴史等。
後鳥羽院、皇統の寺院 「五流尊瀧院」
五流修験の発祥・衰退・再興・後継。
児島高徳 誕生地の石碑、出生、朝廷・南朝への忠勤

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